映画のゲド

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ゲド戦記外伝

ゲド戦記外伝

今日は、あまり時間が無いので、走り書き。。。
ゲド戦記全巻を読み終わって、6巻「外伝:湿原で」に登場するゲドが非常に印象的だった。吾郎監督も「トンボ」と、この「湿原で」が良かったとインタビューで答えているが、映画の中のゲドは、まさに「湿原で」のゲドだと思う。小説を読みながら、頭の中に描いていたゲドは、映画そのままの姿だった。

でも、ここでちょっと「あれ?」と思った。
原作「湿原で」のゲドは、固い事を言うならば、3巻以前のゲドであり、アレンと旅に出る前の「大賢人時代」の設定のはずなのだが、、文章を読んで受ける印象が、4巻以降のゲドなのである(厳密に言うならば、4巻後半〜5巻)。少なくとも、私には3巻の「ストイック」で「ピリピリ」するゲドでは無いように思えた。
端的に言うならば、「きちんと女性性とも合一した後の人格」としか思えないのだ。でなければ、未亡人の農婦である「メグミ」の話しにあれだけ真摯に耳を傾け、かつて学院を大変な混乱に陥れた「イリオス」を追って来たはずなのに、彼とはろくに面会をせず、メグミからの話しと、彼女の人となりを見て全てを理解し、去って行けるのだろうか?
大賢人だから、出来たのだと言われればそれまでだが、どうしても3巻のゲドと私の中ではつながらない。

作品が書かれた時系列で言えば、4巻の後であり、原作者もやはり4巻以降の展開が影響されたのだろうなと思う。

そして、映画では3巻そのままのゲドで描かれていない事が、私にとってはとても良かった。映画の中のゲドは、明らかに5巻のゲドである(魔法の力はまだ持っているけれど)。そして、容姿は6巻の「湿原で」が大きなベースになっている。
それはテナーとの会話に現れていて、あんな風に、互いに打ち解けて信頼し合う会話は、事実上の夫婦でしか成立しえない。

「アレンの馬に乗って行っちゃっていいの?」
とテルーが聴くシーンがあるが、原作の4巻ではまだまだ遠慮があって、あのように会話が出来ていない。(そもそも3巻では登場すらしていないし)

「悪い夢を見たようだ。」
アレンがうなされるのを心配するテナーに、返答するゲド。
あまりに、自然過ぎて見過ごされがちな会話だが、長いゲド戦記の原作を見渡せば、ゲドとテナーがこんな会話が出来るようになる為には、長い長い道のりがあって、それを思うと、一番いい所をサービスしてくれたんだな、と素直に思う。

原作の5巻では、ゲドとテナーは本当に羨ましい夫婦として描かれている。
テナーの大切にしていた「緑の水差し」をうっかり壊してしまった事に、自分の粗忽さを苦々しく思うゲド。
「私が居なくても、あの人は私よりも家事が上手よ、でもあの人の様子が知りたいの。」
と、ハンノキに自分が留守中のゲドの様子をしきりに聞きたがるテナー。
ラストの「森へ散歩にもう行った?」と聴くテナーに「いや、まだ。」と答える会話は、非常に印象的だ。
一番の楽しみは、愛するテナーが帰るまで取っておいたゲドの優しさを思うと、深い所で信頼しあっている二つの性の美しさをしみじみと感じる。
恐らく、グウィン女史や、訳者の清水さんは、こんな素敵なご夫婦なのだろう。私たち夫婦も是非見習わなくては。。。

ゲド戦記全巻読破

[ゲド戦記][ジブリ][映画感想]

お叱りを受けてしまいそうだが、遅まきながら「ゲド戦記」の全巻を読み終わった。
今まで散々書いておきながら「全巻読んでいなかったんかい!」と突っ込みが入りそうだが、言い訳を許して頂くならば、読書に好きなだけ時間を使える時期は人生でも限られている。
1〜4巻を読んだ頃は、気楽な独身独り住まいで、好きなだけ自分の事に時間を使えた。その間に1〜4巻は少なくとも3回は読み返したと思う。ところが、結婚し、子どもを産み、5巻「アースシーの風」が刊行されると知ったのは、丁度、二人目の子どもの育児休暇中だった。もちろん、予約注文したのだが、届いた頃には怒濤の職場復帰、育児と仕事と長距離通勤の両立に手一杯で、分厚い児童書を悠々と読んでいる暇など無かった。6巻の「外伝」が発刊されていると知ったのは、「映画ゲド戦記」の製作発表された後なのだから、いかに、自分の趣味に時間が使えていなかったがよく判る。
遅くとも、映画のロードショウまでには全巻読もうと、3巻から読み返しているうちに、時間切れで映画を観る方が先になってしまい、今に至っている。
これは、独り言の苦情だが、岩波書店はもっと早くに「ソフトカバー版」を出して欲しかったぁ〜〜!とつくづく思う。と言うのも、今から13年程前、私が始めて「ゲド戦記」を読んだのは、児童書の装丁版では無く「同人誌ライブラリー」という所から出版されていた文庫版だったのだ。ところが、この文庫版では第一巻しか出しておらず、続きが気になって仕方のない私は、仕方無く児童書装丁のハードカバーを買った。当時だって満員電車の中でハードカバーを読むのは大変で、「文庫版が欲しいなぁ。」と思っていたのだ。既に全巻ハードカバーで揃えてしまってからの「ソフト版」。。。書店で「あ〜あ」と思った。ハードカバーはどうしても携帯性が悪く、通勤に持って出るのは気が重い。
そんな、こんなですっかり読むのが遅くなってしまった。

さて、読後の感想である。(例によって「ネタバレ」ですので未読の方はご注意下さい!)

まだ、ちゃんとまとまってはいないのだが。もし、これから読もうという方は、6巻の「外伝」から読む事をお勧めする。やはり、6巻の逸話があって5巻の「アースシーの風」のストーリーが進むので、その方がすんなり理解出来る。(読まなくても何とかなるのだけれど)
面白いなぁと思ったのは、この原作の5巻も両極端の評価を受けている点である。アマゾンの書評をざっと読むと
「全ての謎がすっきり理解出来た。」
という人もあれば
「どうもしっくり来ない。やはり1〜3巻が良かった。」
という人も居て、何となく今回の映画「ゲド戦記」の評価のされ方と似ているなぁと感じた。(映画程バッシングは激しく無いけれど。。)書評が書かれているのは、2003年頃の話しだから、既に3年前から今回の芽はあったのかも知れない。
私の読んだ感想としては、「なるほどなぁ。」である。真面目に全ての事柄に「説明」をつけたんだなぁ、、というのが今回の第一印象で、今まで、そんなに疑問に思っていなかった事を、改めて「これはですね、これこれこうですから。」と仔細漏らさず語られているのが、5巻、6巻という印象がある。
ユリイカ8月号のインタビューで、吾郎監督は
「5巻のラストで、死者の国とを分つ石垣をみんなの力で壊してしまうというのはどうも納得行かなかった。」とはっきり明言している。(この時のインタビューアがなかなか良く、「でも、日本人的視点で見れば、輪廻転生は理解し易く、そもそも死者の国はアーキペラゴ側の人間が勝手に作ってしまった所なのだ、という理屈は理解し易くありませんか?」と鋭く食い下がっていたのが、印象深かった)
ただ、面白い事に吾郎監督は5巻のラストに納得が行かないものの、一番気に入っているのは「4巻だ。」とも言ってる点である。
「俺は1〜3巻までしか認めない!」という人が、もし居たとすると、その人の方が判り易い。受け取る側としては、「ああ、4巻以降の展開が気に入らないんだ、女性とか性の問題とかクローズアップされるのが嫌なんだな。ファンタジーにはそぐわないと取るんだろうな。」と(乱暴ながら)理解出来る。
でも、4巻はいいけど、5巻のラストはちょっと、、、という吾郎監督の感じ方には「おやっ?」と思わされる。
5巻の内容を改めて振り返ってみると、「映画ではあまり取り上げられていないが。」などと、解説本にはあったが、登場人物の関係性や心のうちは、5巻からの影響をとても強く受けているような気がする。

例えば、アレン(5巻では即位後は真の名で通しているのでレバンネンと表記されている)は3巻や、4巻でほんの少し登場する時とは違って、非常に人間臭く、王という立場をわきまえて分別ある行動を取りながらも、押さえ切れない衝動をその内に抱えている事が良く判る。

  • 敬い恋い慕っているゲドが頑として合おうとしない事に、苛立ち、面会はもちろん幾晩か泊まって世話をしてもらったハンノキに嫉妬を覚えたり
  • ゲドに会えないイライラをテナーにぶつけてみたり
  • 満足にハード語も話せず、全身を覆うベールを取ろうともしないセセラクカルカド王国が政略結婚の含みを持たせて強引に送りつけて来た娘)に差別意識を含んだ怒りを感じたり
  • その気になれば、いくらでも条件の良い妃を娶る事が出来るのにのらりくらりと先延ばしにしたり

今までで、一番「人間臭く」描かれている。映画のアレンとは内容は違うが、「アレンの内面にフォーカスをあてている。」点では5巻の影響を感じる。

又、映画ではヒロインだったテルーの印象は、5巻に登場する女性達

  • 成長したテルー
  • 竜女であると明言されている奔放なアイリアン(テルーの姉とされている)
  • 片言しか話せないが、アーキペラゴより竜との契約を忘れなかったカルカドの王女セセラク

のイメージが混合したものだなぁ、と感じた。4巻までしか読んでいなかった頃は、若き日のテナーを写しているのかとも思ったが、その部分もあるし、それだけでは無いとも感じられる。

そして、5巻のゲドとテナーの固い愛と信頼関係は、映画でもそのまま表現されていると思う。(4巻はまだ二人の愛は始まったばかりの「ドキドキ」する性格の方が強く、映画ではもっと安定しているように見えた。)

何だか、まだまとまり切れないのだが、大雑把な所では5巻は「今まで親しんでいた世界だな。」と思ったのが私の感想である。物語の後半に「輪廻転生」という文字が透けて見えたからだろうか。それに、いろいろな人が映画の感想として「テナーが竜になっちゃうのが唐突だ。」とも言っているが、原作を読んで逆に拍子抜けした感もある。だって、ストレートに「竜と人は昔一つだった、それが証拠に稀に、何世代かに数人、人間でありながら竜に生まれたり、竜でありながら人間に生まれたりする子がいる。」とはっきり語らせているのである、(語り手は誰だったのか失念)辻褄をしっかり合わせる所が西洋のファンタジーだなとも、妙に感心してしまった。この部分は、もう少し考察出来そうな気がしている。(自分で書いていても浅いなぁと)

さて、全く突拍子も無いし、たまたまだったのかも知れないが、テルー役だった手嶋さんが「棒読みだ!」と言われてもいるようだが、5巻のセセラクに触れた後だと、朴訥な話し方がアレンの相手役には相応しかったのかも知れないと思う。
まともな文法でハード語を話す事も出来ないセセラクが、必死にレバンネンに対して、自分達の民族に伝わっている話しを教えようとするのだが、最初はなかなか彼に通じない。文字しか情報の無い小説において、いかに「美しい容姿だ」と形容していても、自由に言葉が操れないヒロイン程、気の毒な存在は無い。このあたり、清水さんの訳し方の妙なのだろうが、レバンネンが何となく反発を覚えるのが理解出来る。このぎこちないやり取りも、映画の中のアレンとテルーのやり取りを彷彿とさせるなぁと感じる。特に、魔法の剣を渡しに行った時の、アレンとテルーの最初の「噛み合ない」感じが、セセラクとの関係と似ているのだ。裏を返せば、両者共に強く惹かれている訳だが、この共通点もなかなか面白いなと思った。ジブリスタッフがそこまで考えて演出したのかどうかは判らないが、、

何だか、まだ消化不良気味ではあるが、ひとまず、読破後の感想第一弾という事で。。

エロスとタナトス

[ジブリ][ゲド戦記][映画感想]

おとなり日記リンク先を辿ったら、素晴らしい一説を発見!

さすが、演出家を目指している方らしく、洞察が深い!私はずっと「ゲド戦記」肯定/支援派だけど、読売新聞にまで載っていた「悪くは無いけどちょっね〜」という内容の

を読んですっかりがっかりしていたからだ。「そんなだったかなぁ、、、私の見たものはそうだったかなぁ。」と不安になってしまう。(ライバル勢力の朝日が嬉しそうに「原作者ゲド批判!」と早々と書くのは納得行くのだが、支援派であるはずの読売オンラインでも載せちゃうんだぁ、、、と、それとも、公正な報道を目指したのか???)

でも、上記のリンク先を読んで、深く納得!後でまた書きたいが、「エロスとタナトス」の説明には大いに納得した。(りんたろう作品も観たくなりました)

【追記】
「エロスとタナトス」の記事の感想。
「神話」という言葉に触れて、「そうだったのか〜!」と深く深く納得。そうそう、ゲド戦記はとても神話的なのである。原作もそうで、しかも、洋の東西有名所の神話をいろいろ持って来てしまっているから、この原作を下敷きにするのは容易な事では無かったろうなと思う。神話程に「枯れて」おらず、まだキャラクターに「生っぽさ」が残っているのは、経験が浅い故なのかも知れない。
ジブリが今まで描かなかった「タナトス」である故の、観客の反感。でも、この「若き演出家」さんが危惧している通り、ネガティブキャンペーンの口車に乗ってしまっている人の大半は、自分の眼と耳で得た物をきちんと考えもせず、他人の評価に安易にのってしまっているようで悲しい。
でも、この所「おとなり日記」をちらちら巡回してみても、積極的に誉める訳でも無いが
「酷評されてるから、逆に怖いもの観たさで行ったら、何だ普通に面白いじゃないか。」
という感想もよく見かける。少なくとも
「世の中で言われている程に、何処が悪いのか判らない。」
と良識ある感想も見受けられるのが救いだ。

「火垂るの墓」感想追記とユリイカ8月増刊号

[ジブリ][映画感想][火垂るの墓]

ゲド戦記」特集のユリイカ8月号を読んでいる。ゲド戦記の記事に関しては日を改めるとして、別の事で「おや!?」と思う。

たとえば、キャラクターの内面を表現するという点では、宮崎(駿)よりもはるかに優れた演出家である高畑勲の監督作品では、アニメ作品というよりは、アニメでつくられたドラマという印象を受ける。
ユリイカ8月号〜宮崎吾郎はいったい何を捨てて無垢を拾ったのか〜池田雄一氏」より抜粋

記事の趣旨は、それまでの「宮崎アニメ」の構造を難解な語り口で解き明かす、ちょっと、取っ付きづらい文章なのであるが、簡単に言ってしまえば、
宮崎駿アニメは、キャラクターを生き生きと動かす程、そのキャラクターの精神はその動き自身に閉じ込められ、結果として「内面が無く」なってしまう。それを補う為に、作品世界自信に「精神」をえる事によって、問題を解消している。」、、、と説いていて、それを比較する使い方で、上記に引用した文章があったのだが、、、

この記事を帰りの電車で読みながら、家に帰り着くと、子ども達が私の母(夕方子ども達と留守番をしてくれている)と「となりのトトロ」を丁度観ていた(DVDで)。
場面は、メイが居なくなった事を知ったサツキが、泣きながら大トトロの所に「助けてくれ」と頼みに行く所だったのだが、、
このシーンをパッと観た瞬間
「あ、浅い!」
と感じてしまった。トトロを見てこんな事を思ったのは初めてである。
たぶん、先の記事が頭にあったのと、先日観た「火垂るの墓」の印象がまだ鮮明に記憶として残っていて、今まで気が付かなかった「差異」が判ってしまったのだろう。

火垂るの墓」を観終わった後で、サツキとメイを見ると、どこか「記号的」で「このくらいの年齢の女の子はこんな感じ」と概念的にキャラクターが作られていると感じてしまう。それは、それで正解だし、最初にトトロを観た時は
「サツキとメイは私たち姉妹と同じだ。」と感動して涙までしたのだから、ある一定以上の(むしろ、高水準な)キャラクターに練り上げられているのだと思う。
でも、、、「火垂る」を観てしまうと、、、キャラクターの作り込み、演出の緻密さ、そして「節っちゃんはきっとこんな女の子」と思わせる圧倒的リアリズムと比べると、サツキとメイがとても平板に見えてしまった。
「だから、宮崎さんは近藤さんが欲しかったんだ。」
と、改めて「火垂る」の作画監督であった近藤喜文氏の力量を感じた。
「トトロ」と「火垂る」を同時制作しなければならなくなった時、宮崎監督も、高畑監督も、近藤さんを制作メンバーに欲しがったそうだ。(元記事をリンクしたいのに、どこにあったのか探せない)
「近ちゃんさえもらえれば、後は宮さんが自由にスタッフを選んでくれていい。」とまで高畑監督は言い切り、宮崎監督は毎日のように「トトロに参加してくれ。」と近藤さんを口説いていたとか。板挟みになった近藤さんが、鈴木Pに相談した所、
「宮崎監督は自分で描けるから。」と高畑組への参加を促したそうだ。その足で近藤さんが宮崎監督の所へ事情を説明しに行くと
「そんなら、俺は今から入院する!俺は腱鞘炎だ絵が描けない!」と言って、駄々を捏ねたそうだ。
数年後、鈴木Pが近藤さんと二人でお昼を食べながら
「あの時は大変だったねぇ。」と話すと、普段は寡黙で温和な近藤さんが、ポロポロと大粒の涙を流したそうだ。よっぽど辛かったんだろう。
それほどまでに、近藤さんには才能があった。今や「巨匠」と言われる駿監督ですら描けない「何か」が近藤さんのアニメにはある。宮崎アニメが大好きな人間が、初めて気が付いた「駿監督もかなわないと思っていた人」の存在を遅まきながら知った。
その差が、よく判るのが「メイ」と「節子」の二人の女の子だ。奇しくも、「トトロのメイ」と「火垂るの節子」は、ほぼ同じ年齢の女の子だ。
同時上映されたこの二つの作品は、同年齢の女の子を描いていた訳で、その事実を考えると不思議だなぁと思う。
この二人の描かれ方を比べると、差は一目瞭然。メイちゃんもとても可愛く、いかにもあの歳の子らしい性格で描かれているのだが、「何年経っても成長しない永遠の子ども」なのである。
一方、節っちゃんは「この子は大きくなったら、こんな女性になったろうな。」と思わせる程、彼女の内面的性格まで判る「リアルさ」があるのだ。緻密で絶妙な演出と、天才的に「日常の姿を描くのが上手い」才能が出会って、節ちゃんというキャラクターが生まれたんだと、始めて認識した。
本当に、本当に、惜しい才能を無くしてしまったものだと思う。

、、、でも嘆いてばかりもいられない。
実は、まだ何の根拠も無いのだが、「ゲド戦記」の作画監督を務めた「山下作画監督」にも、何かがあるように思えてならない。
そして、吾郎監督も監督日誌で「山下さんとは、肌が合うというかお互いに同じ物を「良い」と思えるので仕事をしていても気持ちがいい。」と書いていた。
鈴木Pはインタビューで
「まだ、感だが吾郎君はプロデューサー的な事も出来る人だと思う。」と漏らしていて、次なる仕事はそんな所で新しい役割がスタートするのでは、、とも期待している。

火垂るの墓を観る

[火垂るの墓][ジブリ][映画感想]

火垂(ほた)るの墓 [DVD]

火垂(ほた)るの墓 [DVD]

ずっと避けていたこの作品をとうとう購入した。著作権の関係なのかこの作品のDVDは「ジブリがいっぱいコレクション」に入っていない。(VHS時代には確かにシリーズに組み込まれていたのに)1500円という安売りで特典映像もほんの僅か、DVD1枚だけの封入なのが、他の作品と区別されてしまっているようで悲しい。これだけの名作なのだから、ちゃんと「ジブリコレクション」として周辺情報も含めて、DVDも丁寧に編集して欲しい。そう思う一級品だ。

この映画を初めて観たのは、かれこれ15年以上前だろうか。TV放映されたのを観たのか、レンタルビデオを借りたのか、どちらか忘れてしまったが、1〜2回しか観ていない事は確かだ。多くの鑑賞者が言うように、この鮮烈な内容に怖れを成して「もう観たく無い」と思ったからだ。
初見の時の感想は「ただただ、可哀想。」だけで、「もう一度観たら十分だ。」とも思った。
私が小学校時代には、まだまだ戦後の事を知る人が身近かに多く、よく「体験談」を聞かせてもらった。父方の祖父などは、良き語り部で水戸で空襲に遭った時の事をよく話してくれた。「ガラスのウサギ」も読んだし、「はだしのゲン」ももちろん読んだ、東京大空襲を鮮烈に描いた「猫は生きていた」も映画館で観て、先の戦争がどのようなものだったのか、しっかり叩き込まれて来たと思っていた。

しかし、結婚して家庭を持ち、二人の子どもの母親になった時、「魔女の宅急便」や「となりのトトロ」のビデオを買い与えている時から、「いつか、見せなくては」と思っていたのが、「火垂るの墓」だ。その時は、教育的視点から「伝えるべきもの」としてしか捉えていなかった。

この所、食事の度にふざけて仕方のない下の息子を、毎度毎度叱りつけるのに少々くたびれていた。「食事は大切だよ、食べられるって事はこんなに幸せなんだよ。」
口を酸っぱくして言い続けても、3歳半にはなかなか判らない。上の娘の時はここまでふざけなかったのにと、業を煮やしたのもきっかけとしてあったかも知れない。又、小学2年生になった娘には、そろそろ内容が理解出来る年でもあった。

ゲド戦記を観て、思わず「高畑さん」の事に思いを馳せた事もあって
「今がその時なのだろう。」と決心した。それだけ、この作品に向かい合うには勇気がいった。自分が間違い無く泣く事が判っていたからだ。

ところが、、観終わった後、(もちろん、眼が腫れるまで泣いたのだが)自分のそれまでの理解がいかに浅かったか、思い知らされた。観るべきは子ども達では無く、子を持った私の方だったのだ。

よく、この映画を観た人が

  • 親戚のおばさんは酷い

と言う。(私もそう思っていた)
一方、もうちょっと冷静に解釈出来る人は

  • 清太が妙な意地を張らずにおばさんに頭を下げていれば節子は死なずに済んだのだ

と腹を立てる人も居る。

私も、これだけ月日が経ち、少しは世の中の事が理解出来始めた年齢だから、どちらかと言えば後者の感想を持つだろうと思っていた。ところが、観た後まるで違う感想を持った。

映画に描かれていたのは、紛れも無い現実であり、そこには「特別に悪い」人も居なければ「特別に我が儘」な子どもも居ない、観る側の心にグサリと楔を打ち込む真実の姿だった。この映画が終始一貫して描いているのは
「子どもは現実に対していかに無力であるか。」その1点である。

昭和20年に生きていようが、平成18年に生きていようが、子どもは「楽しい事が好き」で「美味しいものが好き」で「いつも愛されていたい」ただ、ただそう思い願っている存在なのだ。近藤喜文さんの描く、清太や節子はその優しい眼差しで本当に丁寧に描かれている。あの二人は、私の子ども二人と何ら変わらない。。。そう感じると、映画全ての演出に今まで気が付かなかった、精緻な伏線が沢山張られている事に気が付く。

清太の父は海軍の上官で、戦時中にありながらも、生活面でかなりの優遇を受けていた。清太の母は冒頭の空襲で無惨にも上半身に酷い火傷を負い死んでしまう。母は万一の事を考えて、二重三重の備えをしておいた。空襲で焼け出された時の為に、西宮の遠縁の親戚には「付届け」を意味する荷物を先に送り「万一の場合はこれでよろしくお願いします。」という意味で相応の品を選んでいる。庭先には、当面の避難用の食料を怠り無く埋めておいたし、銀行にはかなりのまとまったお金を残しておいた。軍人の妻として、模範的備えだったのだろう。今風の言葉で言えば「リスクマネージメント」はこれ以上無い程だと思える。ただし、この「分不相応な備え」が兄妹を結局破滅へと追いやってしまう。この皮肉な現実も強烈だ。
そして、清太と節子を結果的に「いびり出して」しまった西宮のおばさんは、果たして悪い人なのだろうか?最初に観た時は「極悪人の業つく婆」という印象だったが、今日見直してみると、彼女は「何処にでも居る(当時は)普通の人」だ。ただ、言うなれば14歳の男の子がどんなものなのか、想像力が無かった事が、この悲劇のきっかけだったのだと思う。
おばさんにして見れば、清太の事を「可愛げが無い」と思い込んでいる。彼ら兄妹が居る故の恩恵(貴重な食料品や、物々交換に有利な高価な着物)に心惹かれながらも、それ故に清太達を特別扱いもしたくない、嫉妬や妬みも相まって、「自分の気に入る行動」をしない清太に苛立ちを覚えている。
愁傷におばさんを頼り、消防活動に参加するとか、畑で何か作るとか、甲斐甲斐しく働けば「面倒だ」と思いながらも、もう少し嫌味の数も少なかっただろう。
ところが、清太はおばさんが信用出来ないのだ。彼は節子を守らなければならず、おばさんが期待する行動をしようと思うと、どうしても、節子をおばさんに預けざる終えなくなる。彼はその部分がどうしても出来なかった。というのも、自分一人ですら母の死にどう対処していいのか判らないのに、節子に対して無神経に接して欲しく無いと思っているからだ。おばさんに対する清太の堅い表情や言葉使いはそれを雄弁に物語っている。
最初は、親切な言葉を掛けてくれたが、その言葉の端はしから、彼はおばさんの人間性を鋭く嗅ぎ取っている。台詞は少ないが、アニメーションでここまで表現出来るとは、近藤さんの力量を改めて感じる。

一方、節子の描き方は、もう「言葉が無い」としか言いようが無い。近藤さんは奥さんと共働きで、育児にもとても熱心だったというエピソードを読んだ事がある。4歳の女の子の何たるかを、近藤さんは本当に良く知っている。一つ一つの動きが、生きた子どもそのままで、最初に観た時は、何とも思わなかったシーンで、私は何度も泣いてしまった。
最初の空襲が怖くて、震えて清太にしがみつく様子、大事に懐から取り出したがま口に入った、とりどりのおもちゃ、(ああ、子どもを知る人だから描けるんだと脱帽)、母の死を気配で嗅ぎ取っている様子、束の間の楽しい海水浴でおぼつかない手つきで洋服を脱ぐ仕草、そして、涙無くして直視出来なかった、ラストの防空壕で独り遊ぶシーン。
清太が盗みや食料の調達に出る間、節ちゃんは独りでずっと遊んでいたのだ。
「兄ちゃん、何も要らないから何処へも行かんといて。」
そう、この台詞を聞いた時、私は自分の愚かさを悟った。
この映画で子どもを教育しようなどと思う事が間違いだった、気づくべきは己自身で、子どもはいつの時代も「ただ、抱きしめられて愛されたいだけ。」なのだ。

気が付くと、3歳の息子は私の膝の上で丸くなってしがみついていた。7歳の娘は何度も涙を拭き、終わった後は、静かに寝転がりながら「可哀想だからもう観たく無い。」とつぶやいた。

そう、今はそう思うだけでいい、でもきっといつか、私のように違う視点で感じる事が出来る日が来るに違いない。
この時代を越えて残る名作を遺してくれた、近藤さんに本当に感謝したい。ご本人は8年前に逝ってしまわれたが、仕事はこのようにしっかり残るのかと思うと感慨深い。
そして、間違い無く、この作品は高畑監督の「最高傑作」と言えると思う。原作者の野坂さんでは無いが「アニメ恐るべし。」だ。

THE ART OF TALES from EARTHSEAを購入

renkonn2006-08-25

[ゲド戦記][ジブリ]
やっと、ゲド戦記のアート本「THE ART OF TALES from EARTHSEA」が届いた。
早速、食い入るように眺めているのだが、いつもの事ながら、ジブリの描画力には本当に脱帽する。
自分の話しで恐縮なのだが、これでも美術大学出身で、学生時代はくる日もくる日も絵を描いていた。専攻はデザイン科だったので、日本画や油絵科の人達程、真剣にデッサンをする機会は少なかったが、多少なりとも絵筆を取った経験から見ると、トテツモナク上手いなぁ、、と思う。
背景美術の秀逸さは、改めて言うまでも無いのだが、今までとはちょっと違う「解放された」印象を受ける。
私も物好きで、このジブリのTHE ARTシリーズは今まで、3冊買っている。

毎回映画が公開される度に、THE ART、ロマンアルバム、徹底ガイド、絵コンテ集、はセットになって発売されているが、今回のTHE ART OF TALES from EARTHSEAは、今までのシリーズと違う面白さを感じた。
第一に、これまでは「イメージボード」は監督一人が描いているもので(すなわち駿監督)キャラクターデザインやら、背景デザインになって、やっと他のスタッフの名前が出て来る感じだった。ところが、今回は吾郎監督以下、複数の人が同じテーマやシーンをモチーフに「イメージボード」を描き起こしているのだ。このコラボレーションが何とも面白い。人によって、こうも捉えるイメージが違うのか、描くキャラクターの雰囲気がこんなに変わるのかと、本当に興味深く見ている。
吾郎監督もなかなか描ける人だが、いやぁ〜凄いと思ったのが、山下作画監督のイメージボード。最初、駿監督が描いたのかと思った程に「ジブリの動き」が描けている。

「僕は美形キャラは描けないので、アレンとテルーは稲村(作画監督)担当で、おじさん、おばさんを専門に描いたんです。」

とは言うものの、この人の描く絵は一番「ジブリ」らしい人物だった。脂の乗ってるとは、今の山下監督の事で、その生き生きしたスケッチの中の動きを見るだけで、キャラクターがどう動くのか想像がつく。さすが、年季が入っているなぁと思えるし、何でも(鳥でも竜でも建物でも)描ける人で、この人はきっとみんなから頼りにされるに違いないと、絵を見てすぐ判った。
そして、私が凄く印象に残ったコメントが、、

「テルーのスケッチを描いていた時、顔の痣を最初は線で小さく入れていました。線画の時は気が付かなかったのですが、着彩の段階になって、痣の色を置いたとたんに胸の潰れる思いがしました。でも、稲村さんはもっと大胆に痣のラインを入れていて、結果としてはあの方が表現として正しかったのだと思います。」

ああ、この人は何て「優しい」人なんだろう。いかに、ストーリーの設定上とは言え、女の子の顔に痣がある状態(原作はもっと酷くて、潰れて片眼も無い事になってます)に、心から胸を傷め、そして、人の仕事に対しても尊敬の念を忘れない。

不思議なもので、絵は人柄を如実に表してしまう。山下監督の描くキャラクターはどれも、懐が深く包容力があって、人間味を感じるキャラクターだ。特に、テナーのスケッチは大好きで、「しっかり者の美しいお姉さん」に描いてくれたのが嬉しい。

一方、もう一人の作画監督である稲村さんは、本当に美しくキャラクターを作り上げる。ハウルのキャラクターデザインも稲村さんで、ハウルに限って言えば、駿監督のイメージボードよりも、数倍美形で魅力的なハウルを描いている。
今回の、アレンも稲村さんらしい表現で、「涼しげな目元」を描かせたらこの人の右に出る者は居ないだろう。ご本人も目元が涼しい方なのだ。

そして、吾郎監督は「自分には経験が無い。」と言いながらもなかなかの描き手である事は間違い無い。若い頃から山下監督と同じ様に手を動かし続けていたら、もっと豊かな表現テクニックを身に付けていただろうなと想像するし、建築をやっていただけあって、建物のスケッチは群を抜いて上手い。パースがぴったりとあっている所はお見事で、「クモの館」のイメージボードはさすがです。

今回のアートブックには、映画本編には採用されなかったスケッチが多く載っていて、さらにそれも興味深かった。ゲド戦記の一巻を映画化する前提で、描かれた「若かりし頃のゲド」は目元が吾郎監督にそっくりで、今までの宮崎アニメに「居そうで居なかったヒーロー」になっていただろうな、と想像したりする。(私が原作からイメージしたゲドはこのスケッチのゲドにほぼ近いかなぁ)

面白いのは、大賢人になってからのゲドは、映画本編の中のゲドが一番「それらし」かった事。どの人も、壮年を迎えたゲドの表現には四苦八苦していた。

このように、企画段階での試行錯誤や取捨選択が手に取るように判る内容で、それまでのアートブックのような
「何て、忠実にイメージボード通りに映画は作られているんだろう。」
という見方とは違う味わいがある。

凛々しい若者

[ゲド戦記][高校野球]
ゲド戦記とは全く関係無いが、今日の高校野球勝戦(再試合)のニュースを観て、早実のエース斉藤投手にとても感銘を受けた。
最後に投げた決め球は、何度見ても「しびれる一球」で持てる才能と気迫がこもるとは、まさにこの事だと思った。今時、これほどに「凛々しい」というに相応しい若者が居るのだと、嬉しくなる。
野球の事は、主人から聞く程度で、それほど詳しく無いが、「本当にいい投手」は何人も居ないのだと言う。バッティングはある程度の練習で、今や全体のレベルが上がっているそうなのだが、投げられるかどうかは、まさに「天からの授かり物」を持つ逸材の発掘にかかっているらしい。
斉藤投手は、その「授かり物」を鍛錬したのだろう。
どんな場面でも、表情を崩さないクールフェイス、「涼やかな顔立ち」とはまさに、彼の様な面立ちで、「パッ」と最初に見た瞬間「おお、この子は!」と思った所、案の定女性ファンは多いのだそうだ。このルックスとこの実力である。女性が心惹かれない訳が無い!
しかし、何となくそれだけでは無い「何か」が彼にはあるように思う。すっと一本通った筋の様な物を感じるのだ。彼は自分の「才能」だけに埋没して居ない、恐らくこの年になるまで鍛錬を積み重ねて来たのだろう、その積み重ねをとても素直に、自分の中に消化させている。何となくだが、「ゲド戦記」原作のアレンを思い出した。(映画のアレンとはちょっと違うかな)
「天からの授かり物」は「ゲド戦記」で言う所の、「魔法の才能」と似ている。
斉藤投手は、その才能故、これから沢山の進路を提示されるだろう。そして、恐らくこれからも野球の道に精進するのだろうが、才能を持ったが故の苦しみも味わうに違いない。そして、この才能がどんな風に「味のある」ものへと変化して行くのか、とても楽しみである。
高校生故の初々しさと凛々しさは、世の中を知れば知る程、変化せざる終えなくなる、でも、いいではないか、と私は思うのだ。あれほどに輝いたのだ、この夏彼が得たものは「優勝」だけでは無いはずだ。
毎年よく思うのだが、この季節は「若さ」が眩く羨ましく思う。