グィン女史の感想を受けて。。

[ゲド戦記][ジブリ][映画感想]
グィン女史の映画感想がいろいろな形で訳されて、「ゲド戦記」酷評派は「そらみた事か!」と溜飲を下げている風がある。酷評派の動向は、もうこの際どうでもいいのだが、私が引っかかっているのが、グィン女史の「感想」の向こうに透けて見える、エモーショナルな感じである。
原作者なのだから、自分の作品の映像化に対して、エモーショナルに(感情的)になるのは当然で、その気持ちは凄くよく判る。この世で唯一彼女だけが、「感情的」になる権利があるとも思えるのだが、何と言ったら言いだろう、、女史の事をちょっと神格化し過ぎていたのかな、、とややがっかりしている自分が居る。
平たく言ってしまえば、
「え、そう観てしまったんだ。。。」
と、思ってしまった部分があるし、吾郎監督が勝手に自分の発言をブログに載せたから
「だから、私もこうやって書くのよ!」
と、自分のブログに「本当の感想」を載せた理由を考えると、この態度は、ファンとしては「ああ、エモーショナルだ。。」としか言いようが無い。。。
創作者はエモーショナルでなければ、創作活動など出来ないのだから、やはりそうなのだろうけれど、、新しい一面を感じたとでも言おうか、作品と、その作者の人柄とは必ずしも一致しないのかなぁなどと思ったりもする。
日本語訳の場合、清水さんという非常に優れた人格者による「日本語訳」が良き「増幅装置」となったのだろう。正直言って、このグゥイン女史のコメントから受ける印象と、作品から受ける印象とにギャップがあって、原作ファンとしては戸惑っている。

いろいろな意味で「え!」と思ったのが、女史が事細かにチェックしている、登場人物の「肌の色」である。この下りは、さすが人種のるつぼであるアメリカだけあって、女史は非常に気を使っていたのかと、初めて気がついた。
正直言って、原作を何度か読んではいるが

  • テナーの肌は白く
  • ゲドの肌の色は浅黒く

とちゃんと訳してあっても、黄色人種の私には、すぐにこの記述の意味は頭から抜けてしまった。想像の中に描かれる「アースシーの世界」では「肌の色」は殆ど意味の無い特徴だったし、果ては「オジオンは黒人である」の記述にはびっくりで、「え!そうだったの?そんな風に書いてあったっけ?」と女史の感想を読んで初めて知った。
有色人種を多数派にして、白色人種を少数派に意図的にしたのは当時(60年代)の世相を考えての教訓的メッセージだと語っているが、「みんな髪は黒いし、眼も黒い」日本人にはその部分は殆ど意味が無く、もっぱら、各登場人物の内面や人柄ばかりに意識が行っていた。
この一事を取っても、作品とは送り手の意図100%には受け取られないのだと、改めて思う。

そして、一番「う〜〜〜ん」と納得しかねたのが

「私はあのように簡単に決着をつけていない。」

の部分である。魔法の剣で斬りつけて、悪者をやっつけてそれで終わりなどど、私は単純な結末にしていないはずだ、、、と女史は感想を述べているが、映画でもそんな風に「単純」に扱おうとは思っていないと私には受け取れたのだ。あのラストを「単純だ」と受け取ってしまわれたとしたら、非常に残念だなと、率直に思う。
どんな話しでも、特に「物語」の形をとっていれば、どこかに「ケリ」は必要で、女史にしても原作で沢山「ケリ」の手法は使っている。

  • 一巻では「一つになれ」とゲドが自分の影を抱きしめるし
  • 二巻ではテナーの家とも言える墓所が崩れ落ち彼女を育てた宦官のマナンが死んでしまう
  • 三巻ではまさにアレンは伝家の宝刀でクモを斬り付け、ゲドが「一つになれ」と穴を塞ぐし
  • 四巻ではテルーが呼んだ竜のカレシンがゲドとテナーを殺そうとしていたアスペンを一撃の元に焼いてしまう

確かに、それぞれの「ケリ」で全てが解決した訳では無いが、物語を締める手法としてはごく普通の手段だし、その表現は原作に対して十分に敬意を払っていると私は思うのだ。
でなければ、アレンはクモに対し
「怖いのは皆同じなんだ。」
と問いかけなかったろう。あの台詞で、単に相手を「倒したら全て解決する悪者。」とアレンは思っていない事がよく判る、クモの恐怖は自分の中にあるものでもあり、彼の恐怖は皆が抱えているそのもので、言うなれば、自己の内面と対峙しているとも言える。そして、彼の剣はクモを倒せなかったのだ。ここは、非常に重要でテルーの助けを借りなければ、「クモを帰るべき所へ還してやれなかった。」と描いている。(「影は闇に帰れ!」とテルーは言っていますね)これは、「単純に悪を倒してハッピーエンド」の結末だろうか。。
これは、裏話だがテルーが変容する直前の表情を描いた、作画監督の山下氏は「ただ怖いだけの表情にしてはいけない、仏様のように見る人によって怖くも優しくも受け取れる表情にしなくては、と思って描いた。」と述べておられる、クモも最後は「救われた」ような声を出すかららしいのだが、(一度しか観ていないので、記憶が曖昧だけど)私も、クモが崩れる一瞬の表情に「ホッ」としたようなものを観た記憶がある。
先日のエントリーでも述べたように、こんな点からも、吾郎監督をはじめとしたスタッフはキャラクターをみなちゃんと「愛していた」と思うのである。
何だか、まるで意図的に「擁護論」ばかり書いているような感じになってしまったが、考えれば考える程、その結論に達するのだから仕方無い。
残念な事と言えば、今回の映画にはあまりにも「雑音」が多すぎた。鈴木プロデューサーはその点も覚悟の上だったのだろうし、いくつか、落とし前を付けなければならない点も残っているのだろう。でも、吾郎監督にはこの逆風にメゲずに是非、もう一本創って欲しい。たぶん、我々世代にしか出来ない何かはあるはずだと思うから。
最後に、本当に余談ではあるが、グィン女史が提案した「原作では全く書かれなかった期間を映画化しては」の提案にジブリ側が答えなかった点だが、、考慮しなかった理由が私には何となく判る。。だって、原作者だって書かなかった期間の話しだ、そこを創作して「面白い話し」になるだろうか。。これは感だが、きっと「面白く無い」と思う。自己実現を果たしたゲドが大賢人となるまでの成功潭としなければならない訳だが、、ベテランとなる為には「延々と単調に9割以上の出来の仕事を積み重ねる」必要がある。映画の脚本としても退屈な話しにしかならないだろうし、短い時間ではそれこそ表現しきれない。ジブリ側にしたら、
「ここは私は耕していないから、勝手に何を作ってもいいわよ。」
と荒れ地をアサインされたようなもので、やはり、物語として「美味しい」部分は小説にしても映画にしても同じなのだろうと思う。(いや、これは全くの余談)

グゥイン女史の感想

[ゲド戦記]
グゥイン女史が自身のブログに、ジブリ版「ゲド戦記」の感想を書いている、、、とネットのブログ伝いに知った。私には、原文を読み下すだけの英語力は全く無いので、yahara教授が上手く抄訳して下さっているのでそちらにリンクを貼らせて頂く。
どうやら、吾郎監督が自身の「監督日誌」書いた女史のコメントを「あれは、個人的に話した内容なのに、ブログに載せている。。。。」と書いている部分も見受けられるので、恐らく、その点は必要であれば「断り無しにコメントを載せた」点を吾郎氏は謝罪するのであろう。
原作者と映画は、常に難しい関係にあって表現手段と表現の制約が全く違うのだから、違って当たり前なのかも知れない。、あの「ナウシカ」ですら、宮崎駿監督がその出来を巡って、分厚い台本を破いて怒りを露に鈴木プロデューサーへぶつけたと言うのだから、、、。
しかし、この女史のコメントの本当の所どうなのだろうか?それとも、本当も何も、このコメントそのまま、
「良い所もあるが、私の原作とは違う。」
なのだろうか。。きっとそうなのかも知れない。
私はふと、グゥイン女史はひょっとして自分の書いた物が、どう解釈されたのか(特に日本で)映画を観て初めて知ったのかも知れないなぁ、と思った。(恐らく、女史は日本語は堪能では無いだろうし)
思えば、駿監督にしろ、吾郎監督にしろ、そして日本の読者の多くは、清水女史の翻訳本を通して「ゲド戦記」の世界を知っている。英語の原文を読み込んだという人は少ないだろう。清水女史は非常に謙虚にあらゆる所で、

「原作からブレてしまった所があるとしたら、自分の責任だ。」(Invitaion 8月号より)

と、潔く述べておられる。映画「ゲド戦記」の製作に「翻訳者としてオブザーバー的に関わって欲しい。」とのジブリ側のオファーを固辞しているが、改めて、清水女史の功績を私は思うのである。
誤解の無いように、重ねて述べるが、何も私は
「グウィン女史が、こうコメントするのは日本語の翻訳本そのものが違った解釈を誘発させたからだ。」
と言いたいのでは無い。むしろ、翻訳は非常に良く訳されていて「名訳」だとも思っているし、この訳無くして、日本における「ゲド戦記」の評価は無かったと断言出来る。(英語の原文を読み通せる訳でも無い私が断言してしまうのも、やや乱暴だが、その点はお許し頂くとして。。)
一番言いたいのは、違う言語で考え、意思疎通をし、違うメンタリティーと価値観の元で育まれた文化同士が出会うのだから、「異なるアレンジ」が生まれるのは必然で、その事自体に罪は無く、今回の件は、サラリーマン的に言うなれば、
「もう少し丁寧に、段取りを踏むべきだった。」
の一事であろう。鈴木プロデューサーが、駿氏とグィン女史が初めて会談した時の様子をインタビューで語っているが、yahara教授が指摘している「浪花節」は本当に言い得ていて、もう少し、曖昧さを残さずに、きっちりと確認すべき事、決まった事を文書ベースに残せるコーディネータが入るべきだったのだろう。
或は、最初から吾郎監督が行くべきだったのかも知れない。女史はジブリ側の事情など知る由も無いのだから、
「作品の仕上がり全ての責任は、私が取ります。」
と駿監督が言った所で、その実、口出しすれば結局自分が全てを取って変わってしまうのが、判っているから、あえて全くタッチしなかった、、、などと言う、「非常に日本的な行間」なぞ、想像も理解も出来ないのだから、

「もう引退する、創らないと言っておきながら、制作に入っているそうじゃないか。」

と、グィン女史にストレートに言われても仕方無い、むしろ、アメリカ人である彼女であるから言えた一言で、駿監督も恐らく苦笑しているだろう。
回りくどい事をせずに、吾郎監督が直接会って、「この様な訳で自分が創ります。」と述べるのが懸命だったのだろう。
私もyahara教授の意見同様、遅きに失した感はあるにせよ、きっちりと「自分なりの解釈で今回の映画を創った。」旨を述べる必要があるのかも知れないと思う。

ゲド戦記鑑賞記 番外編1

[ゲド戦記][ジブリ][映画感想]
お盆休みを利用して夫の実家(九州)へ帰省のついでに、西日本を旅してきました。(津和野、萩、長崎)息子がおたふく風邪を発症してしまって旅の途中で私と息子だけが先に帰ったのが何とも残念なのですが。。。
夏に、西日本を旅すると日本人として振り返るべき「戦争」の事を生々しく感じられて改めて考えさせられます。関東育ちの私にとって、61年前の戦争は「伝聞」の域からなかなか出る事が出来ず、身近に感じる機会が少ないなぁと思います。一昨年は広島に、そして今年は長崎を訪れましたが、8月にその場に立つと
「あの日もきっとこんなに暑かったに違いない。」
と肌に感ぜられてたまらない感覚に襲われます。この「現場」感覚を忘れてはいけない、そんな事を思っているお盆休みです。
(本当に唐突なのですが、、、そろそろ「火垂の墓」以降の「伝えるべき話し」としてのアニメ作品が出てもいい頃ではとも思っています。この件に関してはまた別エントリーで。。。)


ゲド戦記をもう一度観に行きたいと思いつつ、なかなか叶わないのですが、再度トラックバックと興味深いエントリーに出会いました。

-アニメ「ゲド戦記」再論
-雑魚キャラに愛をこめて

こんな捉え方もあるんだなぁと考えつつ、是非、映画を見終わった後に読まれる事をお勧めする記事です。以下、「雑魚キャラ〜」を読んでの私の感想なのですが。。(以下、ネタバレですのでご了承下さい。)

たぶん、私と似た所を感じられているのだなぁと思いつつ、大きく違うのが映画に対する最終的な感想で、私は
「吾郎監督なりに映画の中のキャラクター全てをちゃんと愛していた。」
のだと思っています。(過去形なのは、監督自身が述べておられる通り、もう映画は監督の手を離れて観客のものになってしまっているから)監督日誌の中にこんな一説があります。
-カッティングの痛み
捨てキャラどころか、映画の中の木の葉一枚まで編集の為に切らねばならない事に対しての、「痛み」を新人監督ならではの初々しさで感じておられる、最初にこの日誌を読んだ時にそう思いました。
私も仕事上(グラフィックデザインの仕事をしています)沢山の案の上に成り立つ、たった1点の最終案を捻り出さねばならない場面に多く立ち会います。日の目を見ぬままに闇に消えて行った無数のアイデアや仕事達、そのどれ一つとして「愛おしい」と思われずに世に出たものなど無く、その点は「雑魚キャラ」さんが指摘されている通りです。
それでも、「切らねばならない。」状況は、クリエイションを生業とする家業にはつきもので、その峠を、「もう慣れっこになってしまって何も感じない。」のか「何回通ってもやはり痛い。」と感ぜられるかは、そのクリエイターの持つ大きな資質だと個人的に思っています。
最近「例え闇に消えてしまった仕事でも、その存在は全く無駄では無い。」とも思うようになりました。そうでも思わないと、やっていられない部分もありますが、「闇があるから光がある」の理屈とも関係あるかも知れません。
以前のエントリーで私が書いた様に、今回の「ゲド戦記」はファンタジーの題材を元にしながら、手法は非常に「一歩引いた:高畑手法」を踏襲している感じがして、全てのキャラクターへの「愛情」が感じ取りにくい構成になっています。でも、映画に登場出来ている時点で、全てのキャラクターは「愛されている」存在であり、吾郎監督は「登場出来なかった絵達」にまで心を砕いていたのだろうと思うのです。
このタイプの監督さんは、なかなか理解されにくいですね。心根が非常に優しすぎれば過ぎる程、その傾向はあるように思います。(身近にもそんな人居ますよね。)
夕べ、本当に久しぶりに「もののけ姫」のDVDを息子(3歳)と観ました。
何人かの方が指摘している通り、今回の「ゲド戦記」とその製作過程での真剣度合いは、非常に良く似た作品です。(長さも似てるし、真面目さも似てる)
駿監督が自分でも言っているように「難解な作品」である事は間違いありません、氏の得意とする「笑い」の要素も極端に少なく、猛り狂う女性達は、今回の「ゲド戦記」よりも上回っているくらいです。ただ、全体の出来としては、ほぼ「ゲド」と同じ。派手なアクションシーンと、それまでのジブリ作品には居なかった「二枚目:アシタカ」の存在で、全編保ってしまっていて、逆に主題が見えにくいなぁという感想を持ちました。(最初に公開された時も、主題がぼんやりとしか判りませんでした。)
恐らく、「ゲド戦記」は数年経った頃に評価される作品だろうと私は思うのです。

最後に、最近読んだInvitationの「ゲド戦記」特集から笑い話を一つ。。
ゲド戦記の翻訳者である清水さんが、インタビューの中で、

「原作者のグィン女史から、駿監督に会った後手紙が届きました。『駿に4巻以降のゲド戦記の訳本を送ってあげて、彼はどうやら3巻までしか読んでいないみたいだ』っと。世の中には3巻までしか読んでいない読者は多いのですよ。」


吾郎監督は非常に勉強熱心だなぁと思います。今私も、5巻と6巻を読んでいます。正直、3巻まで程の勢いは無い事は否めませんが、(作家の作品はやはり年齢と共に変化しますね、かの司馬遼太郎氏の作品も、30代後半から40代の脂の乗った時期の作品はぐいぐいと引き込まれる強さがあります。)それでも、年齢を重ねた上でしか書けない、老練さと奥深さがあります。読み終わったらまたその感想なぞも書きたいと思います。

西洋人にとっての「竜」

12〜3年前に、神話や民話、深層心理学に凝って片っ端から本を読んだ時期がありました。「ゲド戦記」の原作もその時に出会ったのですが、何かで「物語の中で扱われる竜は西洋と東洋では大きく違う。」という学説を(?)読んだ記憶があります。
架空の動物である「竜」というものが、西洋にも東洋に言い伝えられているというのは非常に興味深い現象です。(メディアが発達していないのに)ひょっとしたら、源流は中央アジアにあって、それぞれ東西に伝播したのかも知れませんが、到達した時にはその性格が大きく違っていました。

  • 西洋の竜 英雄に退治されるもの(怪物)或は、邪悪な力を持つもの
  • 東洋の竜 竜神という言葉から判るように、神格化され畏敬の念を持ちながら崇められている

ゲド戦記の中での「竜」は太古から存在し、自然そのものであり、大いなる力を持っているが、「正でも邪でも無い」時に人間と対峙し、あるいは、人間に力を貸してくれる、とにかく簡単には捉えられない、そんな存在として描かれています。1巻ではゲドは竜を退治したりもしますが、殺してしまうわけでは無く、問答でやり込めて自分の領域へ追い返す、、という程度に留まっています。
西洋文化圏において、このゲド戦記の中の竜の扱いは非常に新鮮だった事でしょう。単純に「悪役」としなかったところに、グウィン女史の凄さがあります。
ところが、東洋文化圏の人には、実はこの竜の扱いは、別に珍しくも無い事っだったのではと思うのです。理由は先に書いた通り、もっと簡単に言えば、みんな「龍の子太郎」に親しんでいるから、心の奥底に「竜」と聞いてあまり「負」のイメージを持たない土壌があると思うのです。
映画「ゲド戦記」を酷評した書き込みの中に。

というのが目立ちましたが、私は「そう!その通り!あなた判っているじゃないの!」と言いたい気持ちです。同時に

  • テルーが竜に変容する所は原作よりも判り易かった

と、あの部分だけを誉めている人もかなり見受けました。このような感想も、実はいい点を突いていて、この部分のアレンジはジブリならでは、、というよりは、東洋文化圏の人間にしか出来ないアレンジだったのだと思うのです。
実は私も勘違いをしていたのですが、原作ではあの様に、ストレートに「テルーは竜」とは表現していません。もっと婉曲に「どうも竜の子らしい。」程度で、本人が竜になる訳では無く、「カレシン」という竜のゴットマザー的存在の古老を呼び、ゲドとテナーの窮地を救うという筋でした。(テルーがカレシンの事を「母さん」と呼ぶので、どうやらそうらしいと推測出来る。)今、原作の4巻を読み直しているのですが、この巻のクライマックスは映画「ゲド戦記」に随分と参考にされていて、原作よりもいいアレンジになっています。(原作は非常に唐突な感じが否めない。)映画は3巻を参考にしたとされていますが、実際には、3巻と4巻の半分づつが上手にミックスされています。
なぜ、東洋ならではのアレンジだと思うかと言えば、西洋人にとって「人間と異形生物(動物や自然)」とはきっちりと線引きされるものという概念が染込んでいる、、という話しを聞いた事があるからです。その根拠が、「西洋のおとぎ話では、人間と動物が結婚するという筋はあり得ない。」から、らしいのです。
例えば、「美女と野獣」ですが、これは「王子が魔法で野獣になっている」だけで、根本的には結婚相手は人間です。この様な類型の話しは一杯あって、とにかく最後に「人間でした」と帳尻を合わせている。恐らく、宗教観や世界観から来る、根源的な通念なのでしょうね。グウィン女史も、その通念を完全に取り払うのが難しいらしく、テルーと竜との関係が非常に回りくどく、歯切れ悪く描かれています。(だから、「原作の方が判らない」という意見が多いのだと思う)
一方、私たち東洋圏の物語はどうでしょうか?「鶴の恩返し」に象徴されるように「異形生物との結婚」の話しは至る所にあります。正体が判ってしまって泣く泣く家族と別れてしまう結末に、私たちは「知らなければ良かったのに、このまま幸せに暮らせば良かったのに。」と惜別の思いを抱いたりします。つまり、自然界と意識の境界線が低い文化圏や民族通念を持っているというのです。(エスキモーの民話に至っては、蟹のお婿さんを迎えて暮らすという話しもあるそうで、しかも人間の姿に化けてもいないそうです。)
そう見ると、テルーが死の瀬戸際で、自らの中に持っていた「竜の心」が目覚めて竜に変容するというストレートな表現は、非常に東洋的です。しかも、竜(或は蛇)と女性と結びつける点も「竜子の太郎だ。」とアンチ派まで連想させる程、よく共有されているモチーフなので、これを素直に持って来ているあたり、吾郎監督のサービス精神でしょう。
余談ですが、女性なら人生のある瞬間において自分が「竜」になってしまう様な感覚が理解出来ると思うのです。(私は子ども達を出産した時でしょうか。)日本人は、竜に対し猛々しくもどこか母性的で容姿とは正反対の「優しさ」を感じるのではと思うのです。
だから、ラストの岬でアレンとテナーの竜が優しく鼻先を抱擁しあうシーンは、本当に秀逸!(ここでも泣きました)「感想その1」でも描きましたが、吾郎監督はお父さんよりも、男女の仲を描くのが上手です。そして、女性に対する観察眼が、お父さんは「一歩前に踏み出して前のめりになりながら観察(こうあって欲しいという理想像の匂いが非常にキツい)」するのに対して、とても冷徹(一歩下がって)に観察しているなぁとつくづく思います。

ゲド戦記鑑賞記 その6

[ゲド戦記][ジブリ][映画感想]

公開から一週間経ちました。鑑賞してからも一週間。「もう一度観たいな。」という思いと、「関連本も買おう。」という思いと両方あります。(そうそう、原作の5巻、6巻も読まなくては)今日は竜の事なぞ。。

安定した対構造(つづき)

前回は、原作が書かれて来た時間的経緯を取り上げました。3巻までで止まってしまった間、読者にとっての大いなる謎は

  • なぜ、ゲドとテナーは結婚しないのか

でした。周囲は、いろいろな解釈を一生懸命したものです。

  • 精神的な高見で結ばれた二つの性には、俗世的「婚姻」という事はそぐわない

とか

  • アメリカの現代社会(70年代当時)における離婚率の高さが作者を思いとどまらせたのだろう

とか。。。
映画「ゲド戦記」の劇場パンフレットに、原作の全てを翻訳された清水真砂子さんがこんな一節を書いています。

映画を観て嬉しかったのは、ゲドとテナーが健康な生身の人間として描かれていた事です。

そうなのです、原作を知る者にとって、この清水さんの一言は、永年の渇望を上手く代弁してくれています。吾郎監督とスタッフは、ゲドとテナーを「安定した夫婦」として描きました。たまに訪れると言いながら、ゲドとテナーは永年信頼し合って寄り添う夫婦そのままで、細かい描写がそれを雄弁に物語っています。
ゲドの旅の話をキラキラとした瞳で聞きたがるテナー、ちょっと照れくさそうにしながらも、自分が食べた食器は丁寧に自分で洗うゲド。捕われの身となった時の、テナーがゲドを気遣うシーンや、縛めが解かれ倒れるゲドを必死にテナーが抱きかかえる所など、原画を担当した山下さんも「一番好きなシーンだ」とインタビューの中で答えています。一見地味ですが、この「安定した夫婦」があるから、物語が安定し、アレンとテルーの若々しく、まだまだ不安定なキャラクターの存在が光ってくる。
この構図に気がついた時「スタッフみんなが、きちんと考えているんだなぁ。」と感じ入りました。

この「安定した夫婦」ともう一つの対を成しているのが、アレンの両親である「国王と妃」です。物語の冒頭一瞬しか登場しませんが、非常に正確にキャラクターを描写しています。多くの方の指摘通り、恐らく吾郎監督が自身のご両親(つまり駿監督と奥様)をモデルにしたのでしょう。
そして、私が注目しているのは「お妃」。つまり、吾郎監督のお母さんです。
私はジブリの監督日誌をほぼリアルタイムでずっと読んでいましたが、一番印象深くショッキングだったのがこのエントリーです。「母の反対」(宮崎吾郎監督日誌より)
これを最初に読んだ時は、眉間を強打される思いがしました。
子どもって(特に男の子)は、何て母親の事を鋭く見ているのだろう、そして、自分の言葉が影響力を持つのを知っていても、はやり使わざる終えない母親の気持ち。。。同じ女性として母親として辛くなる程、判ります。
駿監督はエッセイやインタビューの中で
「自分は子育てに関しては何も言えないのだ。彼女(奥様)に全て任せっきりだった。」と発言していて、常に奥様に対し「後ろめたい」という気分を匂わせています。
その姿を見ながら育った息子である吾郎監督。自分を育てる為に大好きなアニメーターの職を諦めたお母さん。お父さんの事を凄く慕っているのに、自分までが同じ道に入ってしまったら、お母さんを裏切ってしまう。お母さんがひとりぼっちになってしまう。息子は大人になっても、ここまで母親を気遣うのかと、驚きと共に考えさせられました。
そんな、生々しいキャラクターが「お妃」には見事に出ています。台詞は本当に短いものですが、永年の不満を内面に溜め込んで、口元は僅かにへの字に曲がってしまい
「あなたはお忙しいのでしょうから、どうぞお気遣い無く。」と良妻賢母として「言うべき台詞を常にわきまえている人格」このお妃の描写をするのに、吾郎監督は非常な勇気が必要であったろうと思います。そして、このキャラクターがあるからこそ、テナーの「健やかなる母性」が安定して見えるのだと思うのです。