安定した対構造(つづき)

前回は、原作が書かれて来た時間的経緯を取り上げました。3巻までで止まってしまった間、読者にとっての大いなる謎は

  • なぜ、ゲドとテナーは結婚しないのか

でした。周囲は、いろいろな解釈を一生懸命したものです。

  • 精神的な高見で結ばれた二つの性には、俗世的「婚姻」という事はそぐわない

とか

  • アメリカの現代社会(70年代当時)における離婚率の高さが作者を思いとどまらせたのだろう

とか。。。
映画「ゲド戦記」の劇場パンフレットに、原作の全てを翻訳された清水真砂子さんがこんな一節を書いています。

映画を観て嬉しかったのは、ゲドとテナーが健康な生身の人間として描かれていた事です。

そうなのです、原作を知る者にとって、この清水さんの一言は、永年の渇望を上手く代弁してくれています。吾郎監督とスタッフは、ゲドとテナーを「安定した夫婦」として描きました。たまに訪れると言いながら、ゲドとテナーは永年信頼し合って寄り添う夫婦そのままで、細かい描写がそれを雄弁に物語っています。
ゲドの旅の話をキラキラとした瞳で聞きたがるテナー、ちょっと照れくさそうにしながらも、自分が食べた食器は丁寧に自分で洗うゲド。捕われの身となった時の、テナーがゲドを気遣うシーンや、縛めが解かれ倒れるゲドを必死にテナーが抱きかかえる所など、原画を担当した山下さんも「一番好きなシーンだ」とインタビューの中で答えています。一見地味ですが、この「安定した夫婦」があるから、物語が安定し、アレンとテルーの若々しく、まだまだ不安定なキャラクターの存在が光ってくる。
この構図に気がついた時「スタッフみんなが、きちんと考えているんだなぁ。」と感じ入りました。

この「安定した夫婦」ともう一つの対を成しているのが、アレンの両親である「国王と妃」です。物語の冒頭一瞬しか登場しませんが、非常に正確にキャラクターを描写しています。多くの方の指摘通り、恐らく吾郎監督が自身のご両親(つまり駿監督と奥様)をモデルにしたのでしょう。
そして、私が注目しているのは「お妃」。つまり、吾郎監督のお母さんです。
私はジブリの監督日誌をほぼリアルタイムでずっと読んでいましたが、一番印象深くショッキングだったのがこのエントリーです。「母の反対」(宮崎吾郎監督日誌より)
これを最初に読んだ時は、眉間を強打される思いがしました。
子どもって(特に男の子)は、何て母親の事を鋭く見ているのだろう、そして、自分の言葉が影響力を持つのを知っていても、はやり使わざる終えない母親の気持ち。。。同じ女性として母親として辛くなる程、判ります。
駿監督はエッセイやインタビューの中で
「自分は子育てに関しては何も言えないのだ。彼女(奥様)に全て任せっきりだった。」と発言していて、常に奥様に対し「後ろめたい」という気分を匂わせています。
その姿を見ながら育った息子である吾郎監督。自分を育てる為に大好きなアニメーターの職を諦めたお母さん。お父さんの事を凄く慕っているのに、自分までが同じ道に入ってしまったら、お母さんを裏切ってしまう。お母さんがひとりぼっちになってしまう。息子は大人になっても、ここまで母親を気遣うのかと、驚きと共に考えさせられました。
そんな、生々しいキャラクターが「お妃」には見事に出ています。台詞は本当に短いものですが、永年の不満を内面に溜め込んで、口元は僅かにへの字に曲がってしまい
「あなたはお忙しいのでしょうから、どうぞお気遣い無く。」と良妻賢母として「言うべき台詞を常にわきまえている人格」このお妃の描写をするのに、吾郎監督は非常な勇気が必要であったろうと思います。そして、このキャラクターがあるからこそ、テナーの「健やかなる母性」が安定して見えるのだと思うのです。