西洋人にとっての「竜」

12〜3年前に、神話や民話、深層心理学に凝って片っ端から本を読んだ時期がありました。「ゲド戦記」の原作もその時に出会ったのですが、何かで「物語の中で扱われる竜は西洋と東洋では大きく違う。」という学説を(?)読んだ記憶があります。
架空の動物である「竜」というものが、西洋にも東洋に言い伝えられているというのは非常に興味深い現象です。(メディアが発達していないのに)ひょっとしたら、源流は中央アジアにあって、それぞれ東西に伝播したのかも知れませんが、到達した時にはその性格が大きく違っていました。

  • 西洋の竜 英雄に退治されるもの(怪物)或は、邪悪な力を持つもの
  • 東洋の竜 竜神という言葉から判るように、神格化され畏敬の念を持ちながら崇められている

ゲド戦記の中での「竜」は太古から存在し、自然そのものであり、大いなる力を持っているが、「正でも邪でも無い」時に人間と対峙し、あるいは、人間に力を貸してくれる、とにかく簡単には捉えられない、そんな存在として描かれています。1巻ではゲドは竜を退治したりもしますが、殺してしまうわけでは無く、問答でやり込めて自分の領域へ追い返す、、という程度に留まっています。
西洋文化圏において、このゲド戦記の中の竜の扱いは非常に新鮮だった事でしょう。単純に「悪役」としなかったところに、グウィン女史の凄さがあります。
ところが、東洋文化圏の人には、実はこの竜の扱いは、別に珍しくも無い事っだったのではと思うのです。理由は先に書いた通り、もっと簡単に言えば、みんな「龍の子太郎」に親しんでいるから、心の奥底に「竜」と聞いてあまり「負」のイメージを持たない土壌があると思うのです。
映画「ゲド戦記」を酷評した書き込みの中に。

というのが目立ちましたが、私は「そう!その通り!あなた判っているじゃないの!」と言いたい気持ちです。同時に

  • テルーが竜に変容する所は原作よりも判り易かった

と、あの部分だけを誉めている人もかなり見受けました。このような感想も、実はいい点を突いていて、この部分のアレンジはジブリならでは、、というよりは、東洋文化圏の人間にしか出来ないアレンジだったのだと思うのです。
実は私も勘違いをしていたのですが、原作ではあの様に、ストレートに「テルーは竜」とは表現していません。もっと婉曲に「どうも竜の子らしい。」程度で、本人が竜になる訳では無く、「カレシン」という竜のゴットマザー的存在の古老を呼び、ゲドとテナーの窮地を救うという筋でした。(テルーがカレシンの事を「母さん」と呼ぶので、どうやらそうらしいと推測出来る。)今、原作の4巻を読み直しているのですが、この巻のクライマックスは映画「ゲド戦記」に随分と参考にされていて、原作よりもいいアレンジになっています。(原作は非常に唐突な感じが否めない。)映画は3巻を参考にしたとされていますが、実際には、3巻と4巻の半分づつが上手にミックスされています。
なぜ、東洋ならではのアレンジだと思うかと言えば、西洋人にとって「人間と異形生物(動物や自然)」とはきっちりと線引きされるものという概念が染込んでいる、、という話しを聞いた事があるからです。その根拠が、「西洋のおとぎ話では、人間と動物が結婚するという筋はあり得ない。」から、らしいのです。
例えば、「美女と野獣」ですが、これは「王子が魔法で野獣になっている」だけで、根本的には結婚相手は人間です。この様な類型の話しは一杯あって、とにかく最後に「人間でした」と帳尻を合わせている。恐らく、宗教観や世界観から来る、根源的な通念なのでしょうね。グウィン女史も、その通念を完全に取り払うのが難しいらしく、テルーと竜との関係が非常に回りくどく、歯切れ悪く描かれています。(だから、「原作の方が判らない」という意見が多いのだと思う)
一方、私たち東洋圏の物語はどうでしょうか?「鶴の恩返し」に象徴されるように「異形生物との結婚」の話しは至る所にあります。正体が判ってしまって泣く泣く家族と別れてしまう結末に、私たちは「知らなければ良かったのに、このまま幸せに暮らせば良かったのに。」と惜別の思いを抱いたりします。つまり、自然界と意識の境界線が低い文化圏や民族通念を持っているというのです。(エスキモーの民話に至っては、蟹のお婿さんを迎えて暮らすという話しもあるそうで、しかも人間の姿に化けてもいないそうです。)
そう見ると、テルーが死の瀬戸際で、自らの中に持っていた「竜の心」が目覚めて竜に変容するというストレートな表現は、非常に東洋的です。しかも、竜(或は蛇)と女性と結びつける点も「竜子の太郎だ。」とアンチ派まで連想させる程、よく共有されているモチーフなので、これを素直に持って来ているあたり、吾郎監督のサービス精神でしょう。
余談ですが、女性なら人生のある瞬間において自分が「竜」になってしまう様な感覚が理解出来ると思うのです。(私は子ども達を出産した時でしょうか。)日本人は、竜に対し猛々しくもどこか母性的で容姿とは正反対の「優しさ」を感じるのではと思うのです。
だから、ラストの岬でアレンとテナーの竜が優しく鼻先を抱擁しあうシーンは、本当に秀逸!(ここでも泣きました)「感想その1」でも描きましたが、吾郎監督はお父さんよりも、男女の仲を描くのが上手です。そして、女性に対する観察眼が、お父さんは「一歩前に踏み出して前のめりになりながら観察(こうあって欲しいという理想像の匂いが非常にキツい)」するのに対して、とても冷徹(一歩下がって)に観察しているなぁとつくづく思います。