グゥイン女史の感想

[ゲド戦記]
グゥイン女史が自身のブログに、ジブリ版「ゲド戦記」の感想を書いている、、、とネットのブログ伝いに知った。私には、原文を読み下すだけの英語力は全く無いので、yahara教授が上手く抄訳して下さっているのでそちらにリンクを貼らせて頂く。
どうやら、吾郎監督が自身の「監督日誌」書いた女史のコメントを「あれは、個人的に話した内容なのに、ブログに載せている。。。。」と書いている部分も見受けられるので、恐らく、その点は必要であれば「断り無しにコメントを載せた」点を吾郎氏は謝罪するのであろう。
原作者と映画は、常に難しい関係にあって表現手段と表現の制約が全く違うのだから、違って当たり前なのかも知れない。、あの「ナウシカ」ですら、宮崎駿監督がその出来を巡って、分厚い台本を破いて怒りを露に鈴木プロデューサーへぶつけたと言うのだから、、、。
しかし、この女史のコメントの本当の所どうなのだろうか?それとも、本当も何も、このコメントそのまま、
「良い所もあるが、私の原作とは違う。」
なのだろうか。。きっとそうなのかも知れない。
私はふと、グゥイン女史はひょっとして自分の書いた物が、どう解釈されたのか(特に日本で)映画を観て初めて知ったのかも知れないなぁ、と思った。(恐らく、女史は日本語は堪能では無いだろうし)
思えば、駿監督にしろ、吾郎監督にしろ、そして日本の読者の多くは、清水女史の翻訳本を通して「ゲド戦記」の世界を知っている。英語の原文を読み込んだという人は少ないだろう。清水女史は非常に謙虚にあらゆる所で、

「原作からブレてしまった所があるとしたら、自分の責任だ。」(Invitaion 8月号より)

と、潔く述べておられる。映画「ゲド戦記」の製作に「翻訳者としてオブザーバー的に関わって欲しい。」とのジブリ側のオファーを固辞しているが、改めて、清水女史の功績を私は思うのである。
誤解の無いように、重ねて述べるが、何も私は
「グウィン女史が、こうコメントするのは日本語の翻訳本そのものが違った解釈を誘発させたからだ。」
と言いたいのでは無い。むしろ、翻訳は非常に良く訳されていて「名訳」だとも思っているし、この訳無くして、日本における「ゲド戦記」の評価は無かったと断言出来る。(英語の原文を読み通せる訳でも無い私が断言してしまうのも、やや乱暴だが、その点はお許し頂くとして。。)
一番言いたいのは、違う言語で考え、意思疎通をし、違うメンタリティーと価値観の元で育まれた文化同士が出会うのだから、「異なるアレンジ」が生まれるのは必然で、その事自体に罪は無く、今回の件は、サラリーマン的に言うなれば、
「もう少し丁寧に、段取りを踏むべきだった。」
の一事であろう。鈴木プロデューサーが、駿氏とグィン女史が初めて会談した時の様子をインタビューで語っているが、yahara教授が指摘している「浪花節」は本当に言い得ていて、もう少し、曖昧さを残さずに、きっちりと確認すべき事、決まった事を文書ベースに残せるコーディネータが入るべきだったのだろう。
或は、最初から吾郎監督が行くべきだったのかも知れない。女史はジブリ側の事情など知る由も無いのだから、
「作品の仕上がり全ての責任は、私が取ります。」
と駿監督が言った所で、その実、口出しすれば結局自分が全てを取って変わってしまうのが、判っているから、あえて全くタッチしなかった、、、などと言う、「非常に日本的な行間」なぞ、想像も理解も出来ないのだから、

「もう引退する、創らないと言っておきながら、制作に入っているそうじゃないか。」

と、グィン女史にストレートに言われても仕方無い、むしろ、アメリカ人である彼女であるから言えた一言で、駿監督も恐らく苦笑しているだろう。
回りくどい事をせずに、吾郎監督が直接会って、「この様な訳で自分が創ります。」と述べるのが懸命だったのだろう。
私もyahara教授の意見同様、遅きに失した感はあるにせよ、きっちりと「自分なりの解釈で今回の映画を創った。」旨を述べる必要があるのかも知れないと思う。