グィン女史の感想を受けて。。

[ゲド戦記][ジブリ][映画感想]
グィン女史の映画感想がいろいろな形で訳されて、「ゲド戦記」酷評派は「そらみた事か!」と溜飲を下げている風がある。酷評派の動向は、もうこの際どうでもいいのだが、私が引っかかっているのが、グィン女史の「感想」の向こうに透けて見える、エモーショナルな感じである。
原作者なのだから、自分の作品の映像化に対して、エモーショナルに(感情的)になるのは当然で、その気持ちは凄くよく判る。この世で唯一彼女だけが、「感情的」になる権利があるとも思えるのだが、何と言ったら言いだろう、、女史の事をちょっと神格化し過ぎていたのかな、、とややがっかりしている自分が居る。
平たく言ってしまえば、
「え、そう観てしまったんだ。。。」
と、思ってしまった部分があるし、吾郎監督が勝手に自分の発言をブログに載せたから
「だから、私もこうやって書くのよ!」
と、自分のブログに「本当の感想」を載せた理由を考えると、この態度は、ファンとしては「ああ、エモーショナルだ。。」としか言いようが無い。。。
創作者はエモーショナルでなければ、創作活動など出来ないのだから、やはりそうなのだろうけれど、、新しい一面を感じたとでも言おうか、作品と、その作者の人柄とは必ずしも一致しないのかなぁなどと思ったりもする。
日本語訳の場合、清水さんという非常に優れた人格者による「日本語訳」が良き「増幅装置」となったのだろう。正直言って、このグゥイン女史のコメントから受ける印象と、作品から受ける印象とにギャップがあって、原作ファンとしては戸惑っている。

いろいろな意味で「え!」と思ったのが、女史が事細かにチェックしている、登場人物の「肌の色」である。この下りは、さすが人種のるつぼであるアメリカだけあって、女史は非常に気を使っていたのかと、初めて気がついた。
正直言って、原作を何度か読んではいるが

  • テナーの肌は白く
  • ゲドの肌の色は浅黒く

とちゃんと訳してあっても、黄色人種の私には、すぐにこの記述の意味は頭から抜けてしまった。想像の中に描かれる「アースシーの世界」では「肌の色」は殆ど意味の無い特徴だったし、果ては「オジオンは黒人である」の記述にはびっくりで、「え!そうだったの?そんな風に書いてあったっけ?」と女史の感想を読んで初めて知った。
有色人種を多数派にして、白色人種を少数派に意図的にしたのは当時(60年代)の世相を考えての教訓的メッセージだと語っているが、「みんな髪は黒いし、眼も黒い」日本人にはその部分は殆ど意味が無く、もっぱら、各登場人物の内面や人柄ばかりに意識が行っていた。
この一事を取っても、作品とは送り手の意図100%には受け取られないのだと、改めて思う。

そして、一番「う〜〜〜ん」と納得しかねたのが

「私はあのように簡単に決着をつけていない。」

の部分である。魔法の剣で斬りつけて、悪者をやっつけてそれで終わりなどど、私は単純な結末にしていないはずだ、、、と女史は感想を述べているが、映画でもそんな風に「単純」に扱おうとは思っていないと私には受け取れたのだ。あのラストを「単純だ」と受け取ってしまわれたとしたら、非常に残念だなと、率直に思う。
どんな話しでも、特に「物語」の形をとっていれば、どこかに「ケリ」は必要で、女史にしても原作で沢山「ケリ」の手法は使っている。

  • 一巻では「一つになれ」とゲドが自分の影を抱きしめるし
  • 二巻ではテナーの家とも言える墓所が崩れ落ち彼女を育てた宦官のマナンが死んでしまう
  • 三巻ではまさにアレンは伝家の宝刀でクモを斬り付け、ゲドが「一つになれ」と穴を塞ぐし
  • 四巻ではテルーが呼んだ竜のカレシンがゲドとテナーを殺そうとしていたアスペンを一撃の元に焼いてしまう

確かに、それぞれの「ケリ」で全てが解決した訳では無いが、物語を締める手法としてはごく普通の手段だし、その表現は原作に対して十分に敬意を払っていると私は思うのだ。
でなければ、アレンはクモに対し
「怖いのは皆同じなんだ。」
と問いかけなかったろう。あの台詞で、単に相手を「倒したら全て解決する悪者。」とアレンは思っていない事がよく判る、クモの恐怖は自分の中にあるものでもあり、彼の恐怖は皆が抱えているそのもので、言うなれば、自己の内面と対峙しているとも言える。そして、彼の剣はクモを倒せなかったのだ。ここは、非常に重要でテルーの助けを借りなければ、「クモを帰るべき所へ還してやれなかった。」と描いている。(「影は闇に帰れ!」とテルーは言っていますね)これは、「単純に悪を倒してハッピーエンド」の結末だろうか。。
これは、裏話だがテルーが変容する直前の表情を描いた、作画監督の山下氏は「ただ怖いだけの表情にしてはいけない、仏様のように見る人によって怖くも優しくも受け取れる表情にしなくては、と思って描いた。」と述べておられる、クモも最後は「救われた」ような声を出すかららしいのだが、(一度しか観ていないので、記憶が曖昧だけど)私も、クモが崩れる一瞬の表情に「ホッ」としたようなものを観た記憶がある。
先日のエントリーでも述べたように、こんな点からも、吾郎監督をはじめとしたスタッフはキャラクターをみなちゃんと「愛していた」と思うのである。
何だか、まるで意図的に「擁護論」ばかり書いているような感じになってしまったが、考えれば考える程、その結論に達するのだから仕方無い。
残念な事と言えば、今回の映画にはあまりにも「雑音」が多すぎた。鈴木プロデューサーはその点も覚悟の上だったのだろうし、いくつか、落とし前を付けなければならない点も残っているのだろう。でも、吾郎監督にはこの逆風にメゲずに是非、もう一本創って欲しい。たぶん、我々世代にしか出来ない何かはあるはずだと思うから。
最後に、本当に余談ではあるが、グィン女史が提案した「原作では全く書かれなかった期間を映画化しては」の提案にジブリ側が答えなかった点だが、、考慮しなかった理由が私には何となく判る。。だって、原作者だって書かなかった期間の話しだ、そこを創作して「面白い話し」になるだろうか。。これは感だが、きっと「面白く無い」と思う。自己実現を果たしたゲドが大賢人となるまでの成功潭としなければならない訳だが、、ベテランとなる為には「延々と単調に9割以上の出来の仕事を積み重ねる」必要がある。映画の脚本としても退屈な話しにしかならないだろうし、短い時間ではそれこそ表現しきれない。ジブリ側にしたら、
「ここは私は耕していないから、勝手に何を作ってもいいわよ。」
と荒れ地をアサインされたようなもので、やはり、物語として「美味しい」部分は小説にしても映画にしても同じなのだろうと思う。(いや、これは全くの余談)