ゲド戦記全巻読破

[ゲド戦記][ジブリ][映画感想]

お叱りを受けてしまいそうだが、遅まきながら「ゲド戦記」の全巻を読み終わった。
今まで散々書いておきながら「全巻読んでいなかったんかい!」と突っ込みが入りそうだが、言い訳を許して頂くならば、読書に好きなだけ時間を使える時期は人生でも限られている。
1〜4巻を読んだ頃は、気楽な独身独り住まいで、好きなだけ自分の事に時間を使えた。その間に1〜4巻は少なくとも3回は読み返したと思う。ところが、結婚し、子どもを産み、5巻「アースシーの風」が刊行されると知ったのは、丁度、二人目の子どもの育児休暇中だった。もちろん、予約注文したのだが、届いた頃には怒濤の職場復帰、育児と仕事と長距離通勤の両立に手一杯で、分厚い児童書を悠々と読んでいる暇など無かった。6巻の「外伝」が発刊されていると知ったのは、「映画ゲド戦記」の製作発表された後なのだから、いかに、自分の趣味に時間が使えていなかったがよく判る。
遅くとも、映画のロードショウまでには全巻読もうと、3巻から読み返しているうちに、時間切れで映画を観る方が先になってしまい、今に至っている。
これは、独り言の苦情だが、岩波書店はもっと早くに「ソフトカバー版」を出して欲しかったぁ〜〜!とつくづく思う。と言うのも、今から13年程前、私が始めて「ゲド戦記」を読んだのは、児童書の装丁版では無く「同人誌ライブラリー」という所から出版されていた文庫版だったのだ。ところが、この文庫版では第一巻しか出しておらず、続きが気になって仕方のない私は、仕方無く児童書装丁のハードカバーを買った。当時だって満員電車の中でハードカバーを読むのは大変で、「文庫版が欲しいなぁ。」と思っていたのだ。既に全巻ハードカバーで揃えてしまってからの「ソフト版」。。。書店で「あ〜あ」と思った。ハードカバーはどうしても携帯性が悪く、通勤に持って出るのは気が重い。
そんな、こんなですっかり読むのが遅くなってしまった。

さて、読後の感想である。(例によって「ネタバレ」ですので未読の方はご注意下さい!)

まだ、ちゃんとまとまってはいないのだが。もし、これから読もうという方は、6巻の「外伝」から読む事をお勧めする。やはり、6巻の逸話があって5巻の「アースシーの風」のストーリーが進むので、その方がすんなり理解出来る。(読まなくても何とかなるのだけれど)
面白いなぁと思ったのは、この原作の5巻も両極端の評価を受けている点である。アマゾンの書評をざっと読むと
「全ての謎がすっきり理解出来た。」
という人もあれば
「どうもしっくり来ない。やはり1〜3巻が良かった。」
という人も居て、何となく今回の映画「ゲド戦記」の評価のされ方と似ているなぁと感じた。(映画程バッシングは激しく無いけれど。。)書評が書かれているのは、2003年頃の話しだから、既に3年前から今回の芽はあったのかも知れない。
私の読んだ感想としては、「なるほどなぁ。」である。真面目に全ての事柄に「説明」をつけたんだなぁ、、というのが今回の第一印象で、今まで、そんなに疑問に思っていなかった事を、改めて「これはですね、これこれこうですから。」と仔細漏らさず語られているのが、5巻、6巻という印象がある。
ユリイカ8月号のインタビューで、吾郎監督は
「5巻のラストで、死者の国とを分つ石垣をみんなの力で壊してしまうというのはどうも納得行かなかった。」とはっきり明言している。(この時のインタビューアがなかなか良く、「でも、日本人的視点で見れば、輪廻転生は理解し易く、そもそも死者の国はアーキペラゴ側の人間が勝手に作ってしまった所なのだ、という理屈は理解し易くありませんか?」と鋭く食い下がっていたのが、印象深かった)
ただ、面白い事に吾郎監督は5巻のラストに納得が行かないものの、一番気に入っているのは「4巻だ。」とも言ってる点である。
「俺は1〜3巻までしか認めない!」という人が、もし居たとすると、その人の方が判り易い。受け取る側としては、「ああ、4巻以降の展開が気に入らないんだ、女性とか性の問題とかクローズアップされるのが嫌なんだな。ファンタジーにはそぐわないと取るんだろうな。」と(乱暴ながら)理解出来る。
でも、4巻はいいけど、5巻のラストはちょっと、、、という吾郎監督の感じ方には「おやっ?」と思わされる。
5巻の内容を改めて振り返ってみると、「映画ではあまり取り上げられていないが。」などと、解説本にはあったが、登場人物の関係性や心のうちは、5巻からの影響をとても強く受けているような気がする。

例えば、アレン(5巻では即位後は真の名で通しているのでレバンネンと表記されている)は3巻や、4巻でほんの少し登場する時とは違って、非常に人間臭く、王という立場をわきまえて分別ある行動を取りながらも、押さえ切れない衝動をその内に抱えている事が良く判る。

  • 敬い恋い慕っているゲドが頑として合おうとしない事に、苛立ち、面会はもちろん幾晩か泊まって世話をしてもらったハンノキに嫉妬を覚えたり
  • ゲドに会えないイライラをテナーにぶつけてみたり
  • 満足にハード語も話せず、全身を覆うベールを取ろうともしないセセラクカルカド王国が政略結婚の含みを持たせて強引に送りつけて来た娘)に差別意識を含んだ怒りを感じたり
  • その気になれば、いくらでも条件の良い妃を娶る事が出来るのにのらりくらりと先延ばしにしたり

今までで、一番「人間臭く」描かれている。映画のアレンとは内容は違うが、「アレンの内面にフォーカスをあてている。」点では5巻の影響を感じる。

又、映画ではヒロインだったテルーの印象は、5巻に登場する女性達

  • 成長したテルー
  • 竜女であると明言されている奔放なアイリアン(テルーの姉とされている)
  • 片言しか話せないが、アーキペラゴより竜との契約を忘れなかったカルカドの王女セセラク

のイメージが混合したものだなぁ、と感じた。4巻までしか読んでいなかった頃は、若き日のテナーを写しているのかとも思ったが、その部分もあるし、それだけでは無いとも感じられる。

そして、5巻のゲドとテナーの固い愛と信頼関係は、映画でもそのまま表現されていると思う。(4巻はまだ二人の愛は始まったばかりの「ドキドキ」する性格の方が強く、映画ではもっと安定しているように見えた。)

何だか、まだまとまり切れないのだが、大雑把な所では5巻は「今まで親しんでいた世界だな。」と思ったのが私の感想である。物語の後半に「輪廻転生」という文字が透けて見えたからだろうか。それに、いろいろな人が映画の感想として「テナーが竜になっちゃうのが唐突だ。」とも言っているが、原作を読んで逆に拍子抜けした感もある。だって、ストレートに「竜と人は昔一つだった、それが証拠に稀に、何世代かに数人、人間でありながら竜に生まれたり、竜でありながら人間に生まれたりする子がいる。」とはっきり語らせているのである、(語り手は誰だったのか失念)辻褄をしっかり合わせる所が西洋のファンタジーだなとも、妙に感心してしまった。この部分は、もう少し考察出来そうな気がしている。(自分で書いていても浅いなぁと)

さて、全く突拍子も無いし、たまたまだったのかも知れないが、テルー役だった手嶋さんが「棒読みだ!」と言われてもいるようだが、5巻のセセラクに触れた後だと、朴訥な話し方がアレンの相手役には相応しかったのかも知れないと思う。
まともな文法でハード語を話す事も出来ないセセラクが、必死にレバンネンに対して、自分達の民族に伝わっている話しを教えようとするのだが、最初はなかなか彼に通じない。文字しか情報の無い小説において、いかに「美しい容姿だ」と形容していても、自由に言葉が操れないヒロイン程、気の毒な存在は無い。このあたり、清水さんの訳し方の妙なのだろうが、レバンネンが何となく反発を覚えるのが理解出来る。このぎこちないやり取りも、映画の中のアレンとテルーのやり取りを彷彿とさせるなぁと感じる。特に、魔法の剣を渡しに行った時の、アレンとテルーの最初の「噛み合ない」感じが、セセラクとの関係と似ているのだ。裏を返せば、両者共に強く惹かれている訳だが、この共通点もなかなか面白いなと思った。ジブリスタッフがそこまで考えて演出したのかどうかは判らないが、、

何だか、まだ消化不良気味ではあるが、ひとまず、読破後の感想第一弾という事で。。