ゲド戦記鑑賞記 その3

[ジブリ][ゲド戦記][映画感想]
まだまだ、「ゲド戦記」熟成中です。
嬉しいトラックバックを頂いたので、こちらからもトラバさせて頂きます。


小野マトペさん:とても頼もしく「アンチ・ネガティブキャンペーン」して下さってます。私はここまでちゃんと太刀打ち出来る程、事情通では無いので、とっても頼もしいです。
→ http://d.hatena.ne.jp/ono_matope/20060731

よろ川長TOMさん:豊富な映画鑑賞経験をお持ちのよろ川長TOMさん。その方がここまで賞賛してくれると、とっても「ほっ」としました。明るい気持ちにさせてくれるレビューです。(ゲド戦記の画像リンクも美しい)
http://blog.drecom.jp/tomzone-blog3/

友殺し

昨日あたりから、「高畑勳監督」の事がもの凄く気になっています。その理由は後述しますが、今回の映画「ゲド戦記」を考える上で、同氏の存在は欠く事が出来ないと改めて感じているからです。
私はこの「ゲド戦記感想文 その1」で

と書きました。その考えに変わりは無いのですが、あれから熟考するに
「今回のゲド戦記では、キャラクターグッズになるようなユーモラスな脇役は存在しえなかった。」
という結論に達しつつあります。
映画を酷評している多くの方の意見で、

  • 笑えるユーモラスなシーンが全く無い

というのがあります。仮に、駿監督がこの「ゲド戦記」を作ったなら(実際にはあり得なかったろうと今は思います。)例えば、アレンの乗った馬(もののけのヤックル似)にきっと「名前」を付けたでしょう。ナウシカの「テト」やラピュタの「狐リス」の様な、主人公の肩に乗った小動物を描き、それに名前と命を与えただろうと思うのです。(駿監督は根源的にそうせざるを得ない人物のように思います。)
ところが、面白い事実として原作の第一巻で、少年ゲドは「オタク」という名の小動物(「テト」「狐リス」の原型モデルでしょう。)を連れて旅をしています。この「オタク」はゲドが生死の境を彷徨っている時、こちら側の世界に呼び戻すという重要な役割を果たすのです。以来ゲドは

それからというもの、ゲドは賢くあろうとしたら、人は必ず他の生き物--それがもの言うものであろうとなかろうと--を手元に置くべきだ、と固く信じるようになった。(岩波書店:「ゲド戦記I〜影との戦い〜」より引用)

とされている程、腹心の友として大事に思います。
映画のアレンはゲドの若かりし頃を体現化しているキャラクターでもあるので、恐らく企画段階では「オタク」を登場させるか否か、議論されたのではと思うのです。
ただ、原作の「オタク」はゲドが敵の手に落ちる際に、命を落とし、ゲドがやっとの思いで脱出した時、冬の荒野で冷たい骸となって、発見されます。
この原作の下りを思い出した時に、パッと思い浮かんだのが「原作:風の谷のナウシカ」での「テトの死」です。
「原作:ゲド戦記」も「原作:風の谷」でも、この「声無き腹心の友の死」は単に「お涙頂戴だけの演出」では無いはずです。しっかりと、話の前後を読めばその死は主人公の内面の成長過程において、必ず通らなければならない「痛み」なのではと思います。
と、、ここまで考えて一つの法則に気がつきました。
駿監督は、自身が主導権を取る作品の中で「友殺し」をしないのです。
唯一の例外が「天空の城ラピュタ」のロボットで、シータを塔の上に優しく置いた後、砲弾に直撃されて「死んで(壊れて)」しまいます。シータが絶望的に叫びながら最後までロボットの手を取っている様は、「友の死」を見送る表現そのままであり、事実私もラピュタの中で一番悲しく、一番惹き付けられるナンバーワンのシーンだと思っています。
こんな演出が出来るのは誰か。ふと頭をよぎったのが「高畑監督」の名前です。
ラピュタ」は宮崎駿/高畑勳両巨頭が共に仕事をした最後の作品で、その事実を踏まえると、あの中盤のクライマックスは、「友の死→高畑勳にしか出来ない演出」直後に来る「海賊の息子らのはしゃぎぶり→宮崎駿の個性」だったのだと、初めて気がつきました。(きっとこの様な評論は世に多く出ているのだと思いますが。)
両監督は、この作品以降互いにリスペクトし合いながらも、別々に作品を作っています。知名度の点では駿監督の方が抜きん出てしまいましたが、高畑監督が居たが故の「輝き」はこれだったのかと思うと、この別離以降、「二つに割れた環」と言える作品がジブリには続いているのかも知れません。(ゲド戦記の原作を読まれた方ならお判りでしょう「第二巻:こわれた腕環」です。)
やや話が脱線しているように思えるでしょうが、ここで、吾郎監督が「ゲド戦記」に挑んだ意味が何となく掴めた気がするのです。

母性の宮崎、父性の高畑

吾郎監督は自身の「監督日誌」の中で両巨頭の事に1回だけ触れています。このブログのタイトルはそのまま、私が付けた見出しの言葉に置き換えられるとも言えるでしょう。
前章で、「駿監督は友殺しをしない」と書きましたが、この事の理由が「駿監督は根源的に母性的だ」と仮定すると、非常に理解し易くなるのです。
ナウシカに代表される駿監督の描くヒロインは、非常に豊な胸をしています。それも、単純なエロチシズムではない(一歩間違ったらそれっぽくなってもおかしく無いのに)もっと豊な存在で「地母神」という言葉を当てはめると一番しっくりくる存在です。その目で「ラピュタ」以降の駿監督作品を改めて見ると、様々な「母性/地母性」に満ちあふれた作品ばかりなのです。

→言わずもがなですが、地母性が溢れています。キラリと光る「アシタカ」は「原作:風の谷」に登場する「森の人」であり、恐らく成人した「ゲド」が原型でしょう。

→湯婆ぁば、やカオナシが体現するのは「混沌としたカオスの地母性」。ハクは少年という中性的な年齢まで下がってしまいます。大人の成人男性的要素が少ない世界と気づかされます。

ハウル以外は全て女性。母性の様々な形が非常に上手く描かれてますね。

地母性は、いかなるものも、内包し、育み、慈しむ反面、増殖し、絡まり、膨らんで全てを「食らい尽くして」しまう根源的力を持っています。原初的であり、魅力的であり、時に破壊的である。駿監督の作品を示すキーワードと近しいイメージと思えないでしょうか。

一方、母性と切り放たれてしまった父性(高畑作品)は、何処か力強さが次第に失速して行ってるようにも感じます。単純に「興行成績」で比較してしまうとその差は歴然で、「宮崎監督以外の作品はヒットしない。」とまで言われてしまいました。
事実、私もつい昨日まで「高畑さんの作品は面白く無い。」と思い込んでいました。(大間違いです。)

血と肉は宮崎監督から、そして骨格は高畑監督から

こんな事をクドクド私が書くまでも無く、吾郎監督は百も承知だったでしょう。吾郎監督の「監督日誌」を読むと。

  • 「太陽の子ホルス」の様なシンプルで力強い絵にしたい

と終始一貫して書いています。過去の先人達の仕事をつぶさに追って行く時に、当然「高畑監督」の事も意識し、父:駿監督の作品との違いを理解し、自らの中で咀嚼しながら、道を探して行ったのだろうと思います。
そう思うと、巷では「駿監督」との事ばかりフォーカスされていますが、私は急に「高畑監督」との関係が気になりだしたのです。
吾郎監督が先のブログ以外で、高畑監督に言及したコメントは見た事がありません。しかし、「ゲド戦記」を観ると「非常に意識している」と感じるのです。

  • 言葉で言うべき事はきちんと言う
  • 実生活でも起こりうる不安を不安としてストレートに描く

まだ、高畑監督までの「上手さ」は無いかもしれませんが、「ポスト駿監督」というよりは「ポスト高畑監督」と言う方がしっくり来る。そして、それは決して不可能では無いと感じるのです。
今回の「ゲド戦記」では吾郎監督も「友の死」は扱いませんでした。恐らく、ラストのクライマックス「テルーの変容」のイメージを強くする為に、このシーンに集約させたのでしょう。
クモの腕の中で、テルーは次第に息が出来なくなり「ドサッ」と物が崩れ落ちる音を、アレンは背中に聞きます。あのアレンの一瞬の表情と「ああ、死んだ、死んだ、かーわいそう。」(この台詞は絶品、田中裕子にしか言えない!)とつぶやくクモ。
このシーンに「高畑DNA」を私は感じます。

やっと理解出来た「父:高畑勳」

去年あたりから、子ども達と一緒に「母を訪ねて三千里」や「アルプスの少女ハイジ」を観なおしています。実に30年ぶりのはずなのに、映像とストーリーが紡ぎだされると、次々と話の筋と絵柄が思い出されて、自分でも驚きました。それだけ、幼い時に受け取るイメージとお話は強固に無意識下に根付くのでしょう。
そして、今まで大変な誤解をしていたのが、どちらも「駿監督」作品と思い込んでいたのです。(製作に参加している点では間違い無いのですが。)これは、どちらも高畑監督の演出だったのですね。
成人して、改めて一話一話を観ると、この演出の上手さ強固さに「巨匠だ」と感じ入りました。
マルコにしても、ハイジにしても、そこには「人生の理不尽さ」があり、「人間の弱さ」もあり、「それに負けない勇気」「人間の素朴な明るさ優しさ」がきっちりと表現されています。30年経った今でも、魅力は色褪せないし、子ども達はしっかりとメッセージを受け取っています。高畑さんが携わった作品を見た後は、決まって
「どうして?なんで?」と質問攻めにあいます。(3歳の長男でも内容が判るようです)その点は前回の「感想 その2」に書いた通りで、吾郎監督も「あの時代のアニメーションが持っていたバランス」を取り戻したいのだろうと思うのです。
奇しくも、たまたまネットで高畑監督が正面から「千と千尋」を批判しているインタビュー記事を見つけました。

今のアニメーションって、特に背景が、何であんなにリアルなのか。先ほど、子供を主人公にして、そこへ投影していくという話をしました。そうした場合、観客は主人公のキャラクターを十分見ているわけでもないんですよね。それは半分自分なんですから。それはマンガっぽくても、記号でも何でもいいんです。ところが、背景は主人公が見ている外界であり、生きている世界です。主人公と一体化して、見る人が没入していけるように、背景空間をリアルにする。それをディズニーランド方式と、僕は言っている。その世界のなかに巻き込まれてしまう。『千と千尋の神隠し』はその頂点にある作品です。(高畑勲監督:文化庁メディア芸術祭受賞インタビュー記事より)

なるほど、ここに答えがあったか。今回の「ゲド戦記;ネガティブバッシング」も根底にこの心理と仕組みが流れているのでしょう。
ローマ帝国末期では、刺激に馴れてしまった民衆が
「もっと刺激を!」
と熱狂し、コロッセオの中はどんどんエスカレートしたそうです。その事を思い合わせると「ゲド戦記」の舞台に
「古代遺跡の廃墟の中を人がウジ虫の様にうごめいている様子が似合う」
とアドバイスした駿監督も、充分に判っておられるのでしょう。判っていながら、やはりそう創らずにはいられない。この部分をさらに深追いするとまたまた長くなりそうなので、今回はこの辺で。
次回こそ、「テナー/テルー/竜」あたりを書きたいと思います。