やっと理解出来た「父:高畑勳」

去年あたりから、子ども達と一緒に「母を訪ねて三千里」や「アルプスの少女ハイジ」を観なおしています。実に30年ぶりのはずなのに、映像とストーリーが紡ぎだされると、次々と話の筋と絵柄が思い出されて、自分でも驚きました。それだけ、幼い時に受け取るイメージとお話は強固に無意識下に根付くのでしょう。
そして、今まで大変な誤解をしていたのが、どちらも「駿監督」作品と思い込んでいたのです。(製作に参加している点では間違い無いのですが。)これは、どちらも高畑監督の演出だったのですね。
成人して、改めて一話一話を観ると、この演出の上手さ強固さに「巨匠だ」と感じ入りました。
マルコにしても、ハイジにしても、そこには「人生の理不尽さ」があり、「人間の弱さ」もあり、「それに負けない勇気」「人間の素朴な明るさ優しさ」がきっちりと表現されています。30年経った今でも、魅力は色褪せないし、子ども達はしっかりとメッセージを受け取っています。高畑さんが携わった作品を見た後は、決まって
「どうして?なんで?」と質問攻めにあいます。(3歳の長男でも内容が判るようです)その点は前回の「感想 その2」に書いた通りで、吾郎監督も「あの時代のアニメーションが持っていたバランス」を取り戻したいのだろうと思うのです。
奇しくも、たまたまネットで高畑監督が正面から「千と千尋」を批判しているインタビュー記事を見つけました。

今のアニメーションって、特に背景が、何であんなにリアルなのか。先ほど、子供を主人公にして、そこへ投影していくという話をしました。そうした場合、観客は主人公のキャラクターを十分見ているわけでもないんですよね。それは半分自分なんですから。それはマンガっぽくても、記号でも何でもいいんです。ところが、背景は主人公が見ている外界であり、生きている世界です。主人公と一体化して、見る人が没入していけるように、背景空間をリアルにする。それをディズニーランド方式と、僕は言っている。その世界のなかに巻き込まれてしまう。『千と千尋の神隠し』はその頂点にある作品です。(高畑勲監督:文化庁メディア芸術祭受賞インタビュー記事より)

なるほど、ここに答えがあったか。今回の「ゲド戦記;ネガティブバッシング」も根底にこの心理と仕組みが流れているのでしょう。
ローマ帝国末期では、刺激に馴れてしまった民衆が
「もっと刺激を!」
と熱狂し、コロッセオの中はどんどんエスカレートしたそうです。その事を思い合わせると「ゲド戦記」の舞台に
「古代遺跡の廃墟の中を人がウジ虫の様にうごめいている様子が似合う」
とアドバイスした駿監督も、充分に判っておられるのでしょう。判っていながら、やはりそう創らずにはいられない。この部分をさらに深追いするとまたまた長くなりそうなので、今回はこの辺で。
次回こそ、「テナー/テルー/竜」あたりを書きたいと思います。