ゲド戦記鑑賞記 その2

[ジブリ][ゲド戦記][映画感想]
映画館での鑑賞から一夜明けました。
昨日は思い浮かばなかった事が後から後からじわじわと、、心の中に現れてそれをじっくり反芻しています(笑)。
このはてなダイアリーの中でも同じ意見の方々に出会えて、やっとほっとしました。
トラックバックを張らせて頂きます。

yaharaさん:同感です!
→ http://d.hatena.ne.jp/yahara/20060730

15夜通信さん:非常に力強いコメント!
→ http://kame15ya.jugem.jp/trackback/25

このリンク先からも沢山トラックバックが張られています。

やっと娘に答えてやれそうな「死」のイメージへのメッセージ

6歳を過ぎた頃から、娘がしきりと
「死んだらどうなってしまうのか。」
と尋ねるようになりました。
自分にも覚えがありますが、自分と家族以外での社会的つながりが出て来始める頃(小学校低学年)「死」とは一体どんなものなのか、その存在にえも言われぬ恐怖に捕われた時期がありました。今でも、「死」というものを心の奥底にしまい込んで、忘れて日常を送っている向きがあります。(そうでないと、毎日が過ごせませんからね)
ですが、初めて「死」というものを意識し、それに対して大きな恐怖を感じている娘に対し何て答えてやればいいのか、私の中に自信を持って答えてやる術が無く、親としての真価を問われているなぁと感じていました。
ところが、昨日の「ゲド戦記」の中でアレンがその答えをストレートに出してくれました。

「怖いのはみんな一緒なんだ。死があるから生きなくてはならないんだ。」

「怖いのはみんな一緒。」

そうか、何て簡単な事だったんだろう。この台詞を聞いて思わず涙が出て来ました。(今でも涙腺が緩んでしまいます)吾郎監督が一番言いたかった渾身の一言でしょう。
このラストシーンを「今までの遺産の食いつぶし」だとか「怖い描写は子どもに不向き」だとか表層でしか感じ取れなかった人達は不幸でしょう。
娘も、「物が腐ってゆく」過程をよく知りません。死とはどんなものなのか、深淵で簡単には説きがたい問題に対し最初に投げかけてやれる言葉として、これほど勇気づけられる言葉を私は知りません。
クモは魔法の力を借りて、本来の自分を覆い隠していた訳ですが、あの数分間の変容はアニメーションならではの力であり、原作を非常に忠実に再現しています。
タンパク質はやがて細胞の一つ一つが衰え、DNAの中に仕組まれた時限装置が働いて「アポトーシス」が始まる。分解された養分は時に発酵し、ガスを発し、やがてはそれが枯れ、骨だけになり、それも砕けて塵や灰になる。。
クモが怖がって怖がって否定し続けた「死」を身を持って示してくれているシーンで、子どもと共に観る事が出来て良かったと思います。(「もののけ姫」の冒頭に登場するマゴの神の終末と重なりました。)

矢継ぎ早の質問攻め

映画を見終わった後、パンフレットと角川書店から必ず出ている「ガイドブック」を買ってお昼を食べたのですが、娘からは、矢継ぎ早に質問が飛んで来ます。

  • 何故、アレンもゲドもみんな名前を二つ持っているのか
  • どうして、クモは最後あんな風に膨らんでしまったのか
  • クモの城の外に立っていたもう一人のアレンは誰なのか
  • 何故、アレンはクモの側についてしまったのか

子どもだから判るまいと思うのは考え違いで、子どもであるからこそ、いい所をストレートに突いて来ました。自分の体験からも思いますが、成長過程のある一時期「汚いもの」「醜いもの」「理不尽なこと」に非常に惹かれる時があります。その全てを否定し覆い隠してしまって、本当に「美しい事」「清い事」「正しい事」が自分の中に根付くのだろうか。
門の外に立っていたアレンが言います。
「光は闇が無ければ光では無く、闇は光が無ければ生まれない。」

原作を超えた秀逸なアレンジ

劇場鑑賞中、これは!と膝を叩いたのは、原作には無いアレンジのうち、クモの城の外で佇む「影のアレン」の存在です。剣を持って追いかけて来たテルーに言います。
「僕は、アレンの中に居た光だ、アレンの中に居た不安はとうとう肉体をさらって行ってしまった。僕は影の中に残った光なんだ。」
そうか!これは凄いと思いました。原作をつぶさに読んだ人ならば、唸るでしょう。
ご存知の通り、映画化は第三巻をベースにしていますが、人気の高い第一巻のモチーフを主人公であるアレンに重ねています。(ゲドが大賢人になる前に、自らの内なる影に追われるという筋)
原作では、自分の追われていた物は自らの「影」であるとゲドは気がつき、クライマックスでその「影」と対峙して、全てを内包し「全き人となった」所で終わります。この筋立てが当時非常にセンセーショナルであり、多くのクリエイターを刺激した事は有名なエピソードです。(駿監督然り)
ですが、影はあくまで影であり、内面で立ち位置が逆転してしまうという発想は、今回の「ジブリゲド戦記」オリジナルのもので、ここに気がついた監督スタッフが秀逸であったと思います。
というのも、原作ではゲド一人が誰の助けも借りず、たった一人で立ち向かうのですが、映画では、女性である「テルー」の助けを借りなければ、アレンは「全き人」となれません。この設定は、一巻以降の巻をつぶさに読んでいる人ならば、理解出来る「必然」であり、原作者のグインも、「男性と女性とが互いに補い合わなければ、全き存在にはなり得ない」と物語の全編を通して語ろうとしているからです。
このアレンジは、原作ファンとしては「うまい!嬉しい!」と言わざる終えません。

ああ、やはり今日も語りきれませんでした。まだまだ語りたい事は尽きず、、次回は「女性:テナー/テルー/竜」や「原作の変遷」あたりのキーワドで語りたいと思います。