ゲド戦記鑑賞記 その1

[ジブリ][ゲド戦記][映画感想]
本日、公開された「ゲド戦記」(スタジオジブリ作)を早速観て来ました。
誰が何と言おうと、心に残る作品だと思います。
(直前に、Yahooの映画評書き込み何て読まなければ良かったと激しく後悔。あまりに酷くこき下ろされていて、「そんなに出来が悪いのかなぁ。」といらぬ先入観を持ってしまいました。余計な雑音が無ければ、もっと落ち着いて鑑賞出来たのに。なぜ、そんなに酷評が多いのかは後ほど分析してみたいと思います。)

思い入れの強い「ゲド戦記」

この物語を読んだのは、20代前半の頃。有名な心理学者である河合隼雄氏の著書の中でその存在を知り、興味を持ったのがきっかけでした。読み始めたら、たちまち虜です。もっと早くに読みたかったとも思ったけれど、今振り返ればいつ読んでも、その時々に共感出来る部分がある「本当に凄い名著」です。
この物語が映像化されるなら、ジブリをおいて他には無いと思っていただけに、制作発表された時には、心躍る気持ちでした。
でも、正直言ってしまうと監督が、ご子息の宮崎吾郎氏と聞いて最初は「え、それは残念」と思ったのも事実です。ジブリ作品の中で宮崎/高畑両氏以外の監督作品で上手くいった例は少ないし、折角これだけの凄い原作なのに「なぜ?もったいない。」と思いました。
でも、考えが変わったのが、その直後にジブリの公式サイトを訪れた時。有名な広告に使われている「アレンと竜」の絵を観た途端に「ああ、大丈夫だ」と直感しました。鈴木プロデューサーもインタビュー記事でよく言っていますが、絵の持つ力は凄いです。
インターネット時代に積極的に情報を発信し続けたジブリスタッフと、吾郎監督。毎日、かのサイトをチェックしながら、どんな事を考えどんな事に心を砕きながら制作が進んで行ったのか、モニタのこちら側でも共に制作している気分でした。
さて、半年前から公開を期待していた初日。家族(夫、7歳3歳の娘息子)と一緒に近隣の映画館へ向かいました。

なぜ酷評が多かったのか

冒頭にも書きましたが、Yahooの映画評掲示板を観ると、本当に酷い事ばかり書かれています。

  • 説明が足りない
  • 感情移入出来る部分が無くて観客は置いてけぼり
  • 編集が良く無い
  • 言葉で全て説明しようとしている
  • etc

ああ、ネットの掲示板は怖いなぁと思いました。その先入観で観てしまうと、そう見えてしまうもので、それまで自分が信じていたものが揺らいでしまう思いでした。でも所詮は、自分の目で確かめるのが一番で、他人の目を借りた字づらだけでは何も理解出来ないのだと、実際の映画を観て思います。
私個人としては、
「荒削りだけれど非常に誠意ある作り方をしている秀作」
だと思っています。原作を2〜3度読み込んでいるので判るのですが、監督はじめ、関係者全員がよくよく原作を噛み砕いている。この作品は「スルメ」のようにしっかり咀嚼しないと、見る側は胃の腑に収める事が出来ない、そんな作品です。その意味では、父:駿監督と似た傾向を持っておられると思います。

駿監督にしか出来ない事

駿監督の作品も近年「難解」なものが続いていますが、それなりに多くの層に受けるのは何故なのか。今までははっきりそうとは思わなかったのに、今回、吾郎監督の作品と対比して、初めてそれが何なのか気がつきました。

「脇役」や「トリック・スター」の扱いに天才的天分があるのです。

主役では無いけれど、時に話の筋で重要な役割をする脇役達、このキャラクターを徹底してユーモラスに描く事で、ストーリー全体の中での「休憩所」が設けられているのです。話の筋について行けない観客でも。
「木霊が可愛かった。」
と最低限の感想を持つ事が出来る。吾郎監督の作品にはまだそこまでの余裕が無く、やろうとしても、駿監督が描く様に生き生きした所まで表現するのは、なかなか難しい。これは、永年の経験云々では無く、駿監督が持って生まれた天分なのだろうと思います。(「パンダコパンダ」の時代からその片鱗はしっかりあります。)

吾郎監督にしか出来ない事

じゃあ、やっぱり「駿監督でないとダメ」かと言えば、そうでは無く、それまで父が苦手として来た表現を、吾郎監督は意外に難なくこなしている部分があります。それはズバリ「男女の仲」
ラピュタ」の中で、パズーとシータが互いの体を紐でしっかり縛り合ったまま転げて笑うシーンがあります。初めて観た時に
「よく、ここまで男女の微妙な機微を漂白出来たな。」
と思う程、このシーンはサラッと流せて観てしまいます。逆にその事が
「駿監督は、この手の表現は苦手なんだな。」
見る側はずっと思っていました。ハウルでやっとそれらしくなったかなと思うも、永年照れて避けていた為か、「大丈夫だろうか。」とドキドキしてしまいます。
ところが、今回の吾郎監督の「ゲド戦記」には意外にさらりと、それでいて、しっかりと「ああ、ここで恋する気持ちが芽生えたんだ。」と判る事が出来ます。これは、直感的に思うのですが、吾郎監督にはそれをスッと表現出来る才能があります。

新人監督にしか出来ないギラギラした瞬間

もう一つ、もしこの作品を駿監督が作っていたら、決してこの表現は出来なかったろうと思うシーンが後半のクライマックスにあります。(以下ネタバレ)
「今のそなたにはその剣は抜けまい。」
ゲドがアレンの持つ「魔法で鍛えた剣」を指してそう言いますが、とうとう、最後の重要なシーンで、アレンはこの剣を抜き放つ事が出来ます。一般的に「剣は最後には抜ける」のがお約束で、私とて頭では「抜ける」と判っているのですが、このシーンが全編を通して非常に秀逸でした。
というのも、中盤これと言った「トリック・スター」が無いまま、真面目に話が進行して行くので、やや集中力が切れる傾向がありました。
いつまでも、主役のアレンは不安定だし、一体このままで「大丈夫だろうか」と観ている側が不安になる程、「自覚」の時が遅れました。その「ギリギリまで引っ張った」結果が、この剣を抜き放つ部分で、意外な効果を生みます。
「本当に抜けるだろうか」とハラハラするのです。
堅く緩まない鯉口(西洋の刀でもこう言っていいのかしら?)グッと力を入れて一瞬遅れて抜き放たれた剣に、自分でも意外に感動してしまいました。
これは、吾郎監督の気迫が乗り移ったシーンで、「抜けない剣が抜けた」という古典的モチーフを我が物として表現していました。恐らく、新人であるが故のヒリヒリとした緊張感が生み出した至極の一滴とも言える絵で、7歳の娘も私も涙してしまいました。

まだまだ、語りたい事は多いのですが、それは「その2」でという事で。。。