母性の宮崎、父性の高畑

吾郎監督は自身の「監督日誌」の中で両巨頭の事に1回だけ触れています。このブログのタイトルはそのまま、私が付けた見出しの言葉に置き換えられるとも言えるでしょう。
前章で、「駿監督は友殺しをしない」と書きましたが、この事の理由が「駿監督は根源的に母性的だ」と仮定すると、非常に理解し易くなるのです。
ナウシカに代表される駿監督の描くヒロインは、非常に豊な胸をしています。それも、単純なエロチシズムではない(一歩間違ったらそれっぽくなってもおかしく無いのに)もっと豊な存在で「地母神」という言葉を当てはめると一番しっくりくる存在です。その目で「ラピュタ」以降の駿監督作品を改めて見ると、様々な「母性/地母性」に満ちあふれた作品ばかりなのです。

→言わずもがなですが、地母性が溢れています。キラリと光る「アシタカ」は「原作:風の谷」に登場する「森の人」であり、恐らく成人した「ゲド」が原型でしょう。

→湯婆ぁば、やカオナシが体現するのは「混沌としたカオスの地母性」。ハクは少年という中性的な年齢まで下がってしまいます。大人の成人男性的要素が少ない世界と気づかされます。

ハウル以外は全て女性。母性の様々な形が非常に上手く描かれてますね。

地母性は、いかなるものも、内包し、育み、慈しむ反面、増殖し、絡まり、膨らんで全てを「食らい尽くして」しまう根源的力を持っています。原初的であり、魅力的であり、時に破壊的である。駿監督の作品を示すキーワードと近しいイメージと思えないでしょうか。

一方、母性と切り放たれてしまった父性(高畑作品)は、何処か力強さが次第に失速して行ってるようにも感じます。単純に「興行成績」で比較してしまうとその差は歴然で、「宮崎監督以外の作品はヒットしない。」とまで言われてしまいました。
事実、私もつい昨日まで「高畑さんの作品は面白く無い。」と思い込んでいました。(大間違いです。)