安定した対構造

既に多くの方がお気付きと思いますが、吾郎版「ゲド戦記」では

  • ゲド←→アレン
  • テナー←→テルー

の二組の綺麗な対構造になっています。アレンはゲドの若かりし頃を体現し、ゲドはアレンの先の将来像を示していて、この関係はそっくりテナーとテルーの間にもあります。(しかし、グウィン女史はどうして「テナー」「テルー」とたった一字違いの名前にしちゃったのでしょう、、言いにくくて仕方無い。。)
このアレンジが、原作を長く知っている者からすると、「上手くまとめたなぁ」と感心します。もし、原作に忠実にしてしまったら、この4人の年齢と活躍する時間軸がバラバラで、映画にするにはまとまらない物語になっていたでしょう。事実、原作の「ゲド戦記」は作者も悩み熟考しながら執筆されて行った「話そのものが成長する」物語だったのです。
原作は初め1巻から3巻までが出版され、4巻が出版されるまで実に18年の歳月がかかりました。18年ですよ!殆ど、最初に読んだ読者は「この物語りはここで終わりだろう。」と思っていました。(事実私もそうです)3巻までしかなかった時、読み手にとって圧倒的に面白かったのは、1巻と2巻です。以前のエントリーにも書きましたが、1巻はゲド少年が真の自己を獲得するまでの、手に汗握る読みごたえのある冒険談です。そして、2巻目は一転して主人公が女性になり、舞台も暗い地下墳墓へと移ります。この女性が「巫女として名前を奪われた娘テナー」です。多くの心理学者は「ゲド戦記は1巻は男性の心の成長過程を、2巻は女性の心の成長過程を示している。」などと分析していますが、事実、2巻は女性からみるとたまらなく「共感」出来る物語でした。
ちょっと脱線を許して頂くならば、、2巻でのテナーは非常に猛々しく、自分一人が支配する地下宮殿(墳墓)を手足の感触だけで自由に行き来していました。そして、崇められているのに孤独な存在でした。
そんなある日、光の無いはずの地下宮殿に魔法の光を手にしたゲドが、ふいに侵入して来ます。この時のゲドは既に「賢人」になっていて立派な一人の魔法使いです。(カッコイイんですこれが!)テナーは自分の宮殿を踏みにじった男の侵入者に怒り狂い、ゲドを閉じ込めて殺してしまおうとします。ゲドはこの地下宮殿に眠っている、「割れた片方の腕輪」を取りに来た訳ですが、テナーによって瀕死の常態にまで追い込まれます。「死んでしまえ」と思っているのに、気になって時々穴から様子を覗き込むテナー。最後には、自ら降りて行ってゲドと話をしてしまいます。
、、、とこのように、興味深いストーリーが展開され、最後にゲドはテナーと腕輪を連れて、地下宮殿を脱出します。その後の道行きも非常にいい心理描写で、読者にしたら、ゲドとテナーの距離がぐっと縮むのをワクワクしながら読み進みます。ところが、、何と作者はハッピーエンドを用意しないのです。

「私はあなたと一緒に居る事は出来ない。でも必要とあれば何処からでもあなたの所へやって来る。」

という、女性にしてみたら嬉しくも何ともない言葉を言い残してゲドは去り、2巻は終わってしまうのです!そして何か続きが書いてあるのかしらと手に取る3巻には、テナーの「テ」の字も無く、ゲドは既に歳を取って、アレンという若者を従えて「世界の均衡が壊れた」謎を説きに行く冒険に出ます。
こんな状況下で読み進める3巻は、正直一番面白くありませんでした。話そのものは非常に深淵で真面目なテーマなのに、1巻2巻のような心踊る興味が持てない。決着つけるべき課題を残したままなのに、、、という気持ちが読む側にあるから、集中出来ないのでしょうね。
そして、本当にふいに18年ぶりに続編「第4巻:帰還」出版されたのです。もちろん、早速買って読みました。期待通りにテナーがまた戻って来てくれたのですが、、、当然彼女も歳を取り、中年を迎えて人生の第二ラウンドという条件付きでやっとゲドと結ばれます。
今回の映画「ゲド戦記」はそのあたりの「原作が持っていた事情」も上手く汲み取っているなぁと思っているんですが、、、時間になってしまったのでこの続きはまた明日書きたいと思います。